人生を愛した 最終編 作家トーマス太田

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 疲労と挫折で喘ぐ者も少なくない人生を愛せるのは冒険家と哲学者だけであると言って過言ではないようだ。

ブライトンの海岸に沿った道は英国造りの花園だ、海岸と砂浜は自然な調和だが人の手が入ったようにも見える。昼間は、ほぼそこで思考と読書だ。スッカリ女性の影は消えていた、夜はチャイナレストランでの調理ヘルパーで生活費を極めて低く抑えた。元来、美食には興味すらなかった。野菜類と豆、少量の海産物があれば十分だ。それも過食することなく腹七分である、そう考えると何時も笑いが込み上げる「なんて無欲なんだ」、酒を飲む、酒で癒すと言う習慣は全く他人事であった。「精神を癒すのは自身だよ」と平然と笑える自分が好きだった。だが、女性と居る時、レストランでは彼女の言うとおりにするすることも彼の流儀だ。アルコール類は一切飲まず、彼女が飲めばそれを楽しむだけだ、勿論、食べきれないから切って彼女の皿に入れてやることもある。そう言う時は彼にとって愛情を感じる時間でもあった。女性にはある種の畏敬が常にあった。母子家庭たったこともあるし、母の愛情を溢れるほど受けたことだ、亡き母の面影を抱きながら歩き続ける事は人生を決して誤った方向へは進まない。ぽつりと言う「果実を見れば木が分かる」だな。そして、天涯孤独は自分を表現するための媒体キャンバスでなければならない。

緑が溢れ、雨が緑を覆い爽やかに自然が移行していく、外気はしっかりと湿度が低く蒸すと言う事は無縁だ、アングロサクソン系のシャープな顔は気候に由来するのであろうと感じた。旅は好奇心、触れ合い、袖すり合うも多生の縁か、旅情は尽きない。静樹は空手も有段者、其のことも心持を穏やかにしているのであろう、軽く考えるが有段者になると武器を両拳に持っているのと同等なのだ、だからウセイ奴が持つと危険極まりない。公園で仮想組手や型、柔軟体操を体力維持の為に強いてやった。必ず見物人が集まった、臨時に指導することもあった。西洋人の空手観はマーシャルアーツで神秘的かつ最強と考えているのだ。たまにはとんでもないこともある、165センチに満たない小柄な男であり、その鍛錬稽古を見ていると真の力を試したくなるのは人情かも。まして片足に乱取り組手で痛めた古傷で不自然な動きがある。ではあるが引き締まった裸体からは昔取った杵柄が滲みでる。その時、180センチある薄笑いを浮かべた大男から対戦のリクエストがあった。このようなストリートファイトは勝たねばならない、勝以外の意味は存在しない、「果たし合いもそろそろを終わる歳かな」と呟く。宮本武蔵は28歳以降は真剣果たし合いはしていなかった。まず必ず確認を取る、「怪我をしても良いのか、この見物人はウイッドネスになるからね」、男は言った「問題ない」、言うや否やストレートパンチが顔面に向けて飛んできた。目線が合った瞬間にそれは読めた、静樹は何時ものように身軽な驚異の跳躍力を利して跳ね上がり、後ろ廻し蹴りを体重を乗せて踵をこめかみに打ち込んだ。この大技は力の差が離れていないとなかなか決まらない、大男は前のめりに音を立てて崩れた。見物人は拍手喝采に湧いた「ワンダフル」。動かない、間もなく救急車が来た、見物人の説明を背後に受け、何時もの様に何時もの説明をしパスポートを見せた。静樹は何もなかったようにポーカーフェイスでそこを去った。20代の証明だ、そして先の人生を彩るものへの足掛けだと心に留めた。

静樹の姿がビクトリア駅に遇った。滞在期間も終わりに近づき残りの数日をロンドン市内見物とした。歴史的な建造物が多くウエストミンスター寺院の前に立つと芸術的威圧感と相まって石の立体感と創作性とを受け入れない分けにはいかなかった。「ああ松島や」だ。バッキンガム宮殿での衛兵交代、おもちゃの国を彷彿させ、只々、凝視するしかない、七つの海を君臨した大英帝国。歴史上の栄華は素晴らしい後世への贈り物である。

帰路はロンドンから格安航空券での乗り継ぎ空路となる、ドバイ、ニューデリーは少し時間があり見物する事にした、降り立つと何か皮膚が刺すように痛い、そして猛暑だ。何これ、原因は焼き付けるような暑さだった。ではあるが日蔭は涼しい湿度度もそれほどない、褐色眼光、彫の深さはこの気候から生まれるんだろう。牛は悠々と闊歩し人は日陰で昼寝である、何ともストレスのない生活だ。タイの空港では蒸し暑さと蚊だ。香港経由で羽田空港着である約一年ぶりの日本、別に感慨もなく、シーユーアゲインと呟きながら群衆と雑踏の中へ静かに消えていく静樹だった。

 

人生を愛した 第三弾

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駅での人並みは爽やかに流れていく、バックパックとバゲージだけの簡素ないで立ちでの行動なので身が軽い、何か欧州人のような感覚さえなったものだ。先ずは宿泊先へ直行である、ユースホステルと言う若者が使う安宿である。が、公認宿泊機関であり清潔感は十分だ。当時のフィンランドは短期滞在者でも労働許可が出た。これには驚いた、多分、動労力が低層労働を補えないのであろう。職安から仕事を探せた、静樹は電線工事と言う職種を選択、その理由は「俺って、高い所が滅法好きなんだよ賃金も悪くない」崖から見下ろし、畔(ほとり)、海岸岸辺が気に入りだ、そこからのカメラのフェンダー越しに見る風景は絶品だあるとの思いを持っていた。電柱の上で電線張りの工事をしていると下から声がした、ふと見下ろすと幅の広い帽子をかぶった金髪が帽子下からそよいでいた、フィンランド語で話しかけてきた、「分からない」と英語で返した。北欧は第二外国語がドイツ語だ、であるから英語の威力も一般には使えない事がある。が、公的な場所では必ずと言っていいほどユニバーサルランゲージである(心配無用スーパーランゲージ、補足、英語を憶えたいなら異性の友を持つことだ)。彼女囀る(さえずる)ように「Tシャツに何て書いてあるの」、彼のシャツに大きな漢字模様が入っていたのだ。出会いとか機会とは偶然な興味から始まるようだ。その時、小休止で下に降りた、「俺、日本人」、「えっ、嘘」取り留めのない会話となった。でもそこには見えない繋がりが生じる、神秘性を感じることも稀ではない、「袖すり合うも多生の縁」然りかな。「さー 今日は日曜日だ」昔ここでオリンピック開催された、薄らと記憶が頭をもたげた、「開催競技場へ行ってみよう」そこは時代が過ぎて行く面影がくっきり浮かんでいた。最上階の椅子に腰掛けフィンランドの空気を胸いっぱいに吸い込むと空想が止めどとなく脳裏を掠めていく、と共に、極自然に静樹の口から漏れるのだ「幸せだなー」これは全く嘯かない正直な彼の心境である、空間の自由を満喫できる現在を感謝との雄叫びだ。

ある日、街で見かけたカニ又で歩く青年をだ、見るからに日本人だ。ではあるが外国で見る日本人は一応にして中国人と間違うどうしてか、少し日本人の外面を話してみよう。ある部分の女子は語りかけても日本語が分からない振りをする、多分「私は外人よ」とでも言いたいのか、それほど白人と東洋人には美顔に対しての差があった。静樹にはそうされた事がなかった、一流のプレーボーイ気取りの彼だ。「女無くして何の人生だ」彼のキャッチフレーズでもある。話を戻し進める、バックパッカーである事は歴然だ、聞く「何をしている人」、彼はぽつんと言った「冒険家そのものかな」と、そこには照れた感じは無く行く先、何か世間にセンセーショナルな事を仕出かすのではと六感が騒いだ事は記憶に強く残っている。小太りな赤ら顔、酒焼けか、飄々とガリ又去って行った同志のようなものであった。後に彼が時の人となる、小野田少尉をフィリピンのルバング島で見つけ出すとは、その時、その様な概念は皆無だった。時の人となったのは鈴木紀夫氏であった。言った通りの立派な冒険家になっていたのだ、新聞を見て感無量となった。しかし、冒険家とカーレーサーは何時も孤独に去って行くのだ。最後の期はヒマラヤ山脈に雪男を探し求めて散っていった、何とロマンチストなんだドラマを地でいくようだ。相性の良さそうな奥さんとの笑顔の遺写真を見た時思わず目頭が熱くなった、ご冥福を祈ります。

三か月があっと言う間に過ぎた。デンマークへと方向を定めた、ここからは船足となる。昨日は身支度も新たにする為に洗濯もし、さっぱりと仕上げた。北欧の初夏は快適だ、まず日本の亜熱帯気候とは断然異なるものだ、そして短い白夜となるこれも情感溢れるものだ。クールネックの厚めのTシャツが白く映えた。そう大きくない客船はコペンハーゲンの港に入る、そこは御伽の国のように映った。やはりヨーロッパの文化は平面的な文化の日本とは異なり実に立体的だ、安定的に自然状態が継続される領土は文化の構築も深みを増すのであろう。気候も湿度を感じない爽やかさだ、まして北欧の夏は白夜と言って長く明るい。ここは人権に対しても法令処置が行き届いている。強く自由を感じた、ポルノグラフィ雑誌も驚嘆の域だ。素通りするように隣接しする国を跨いで行った。ストックホルムへと進める、他とは変わるのは言語だ北欧の第二外国語はドイツ語でその次はフラスン語で英語はマイナーである。しかし、スエーデンは英語を遜色なく使えるのだ。静樹は北ヨーロッパが性にあうのか背の低さを除けば違和感なく市民と交流で来た。静樹の英語はアメリカン英語で癖がなく軽やかに綴られる口調だ。当時としては稀で冴える(いぶかる)存在だった。

オランダ、ドイツ、フランスと列車旅を続けた。好奇心の目は倦怠疲労感は車窓から外へと消えていく旅情である。ファンタステック!「旅と人生は哀愁の標だ」と呟くのだった、多分、高揚した心が言わせたのか。海底トンネルで一気に列車はドーバー海峡を越境する。描かれた旅の青写真は英国にピボットを当てていたのだ。長期ね渡り留まる積もりでいた。ロンドンにたどり着くとその晩は夏季に臨時で張られたテント村で過ごす、其処は若者のヒッチハイカーが夏季を利用しての旅泊する場所だ。夏季はそう言う場所がヨーロッパには設置される、若者の好奇心には常に国境はない。ビクトリア駅から郊外の避暑地ブライトン、海岸沿いにある町だ、別に濃い理由は無いあるとしたら海岸で静かな場所だろう。その場所で過ごす時間は哲学に於ける考察「人生と愛」がテーマだ。人生で最も価値ある時期は20代である、20代をどう締めくくるかで後の人生に大きな足跡として影響が残る、と言っても決して過言ではないはずだ。既に彼の脳裏は整理されていた人生と言う冒険だ、冒険とは何も山河山海だけにあるのではなく抽象的偶像、都市や群衆の中から必然的にあるの方が寧ろ激だ、激流である。哲学する冒険家とは其のことで群衆の中に埋没しながら浮かぶのだ。非情と言える冒険だ。

 

人生を愛した 第二弾

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 若いカップルのミニスカートも珍しかった。カップルたちの旅は常に良好に行程が進むように感じる、旅とは心境の変化が環境が変わるごとに微妙に動く心だ。「長い事、風呂は御無沙汰だな、臭くないかな」ポツリ思う、車窓から見る風景は荒野に畑、点在する電柱、山下、放牧牛馬、只々、演習場を遥かに越える広大さは圧巻だった。何故か飽きることのない風景だ、「俺の頭は好奇心で何時も一杯だ」、モスクワの宵闇(よいやみ)を突き刺すように列車は駅に滑り込む。朝霧が煙る慕情か一歩踏みしめた瞬間、霧の中の自分に酔った。革ジャンとブルージーンズ、彫の深い顔はモスクワの駅にはベストマッチだ、行きかう人も静樹には異邦感を持たなかった。洋画の一場面、去って行く女をじっと見つめ女の名を呼び続けるシーンかな、ロマンを感じざるを得ない場面が外地にはある「カスバの女」か。英語は殆んど通用しない駅の案内所では英語が話せた、前もって指定されたホテルにタクシーで連れて行かれた、モスクワには三日間の滞在も指定されている。まばらな人並み、国家体制なので全てが穏やかに流れ、その眼差しにも別に際立った感じは見えてこない、広い広大だ、静寂感は静樹にとっては捉えようのなく取り留めのないものだった。ホテルもデカい人気のない校舎のようなものだ。「さー、今晩は風呂に入るぞ」ふと浴室を覗くと湯舟(後で気づくバスタブ)が煉瓦の上に於いてある、「へー、これって風呂桶か随分違うな」、湯を入れて入ったはいいが「何所で体を洗うんだ」、冷たいレンガの床に出て湯船のお湯で石鹸を流した。それはいいがそのお湯が流れずに床に溜まってしまったのだ。時間が経てば流れるだろうと浴室から出た。数分経つとドアがけたたましく鳴った、開くや否や大声で喚いているビアダルポルカのようなメイドが立っていた。階下に湯が漏れ落ちているとのことらしい、即、戻りタオル全部を床の湯に漬け絞り返した。西洋式文化だと知るバスタブで全てを済ますのだ。日本式の溢れるお湯で洗い流す事は快感だと懐かしく思う。慣れてしまえば別に大きな問題は無いだろう、元来、風呂はカラスの行水だ。

翌日、薄ドンよりとしているが晴れ間も覗かしている空模様の中を赤の広場への並木道を歩いていると、少し前を歩く女性がいた、通り過ごしながら挨拶をすると碧眼の目の色と微笑で見返してきた。「綺麗だ美しい」と呟く、静樹は圧倒的に美女には声を掛ける事は自然であった。多分。相手も悪い気はしないはずだとの気持ちは紳士道だと決めつけていた、その逆も然りだ。得意な英語で話しかけると英語で話し返してきた、英語での意思の疎通は実に素晴らしいスタンダードだしユニバーサルランゲージだと悦に入った。26文字のアルファベットの表現で世界は一つになれるのだ。静樹が喋れたのは米国への憧れとジョーン・バエズが好きな事で支障なくラジオから入って来た。赤の広場に二人はたたずむ、ソビエト連邦の表徴、ここは国の催事が行わる有名な場所だ。ベンチに座り身近な事を話し合った、大学性で親戚の家に遊びに来たとの事だった、日本への憧憬もありいずれは旅行で行きたいと言った、間髪を入れず「是非、来てください、僕が案内します」と伝え心にほのかなものが芽生えたようだ。人生には劇場のような成立性を感じた。ソフィアと逢った瞬時は其の後再び訪れつ事は無かった。

モスクワ駅から北欧に入る列車に飛び乗る、旅は一つ一つのメランコリックを重ねる憂いが好きだった。一晩越すとそこはフィンランドだった。車窓から眺める外景に写る印象は人々がとても綺麗な金髪で碧眼、これは晴天の霹靂だ、未だ過ってない日本と異なる文化風習を感じ美への憧憬の念を再度意識した。そして親日国家でもある。

人生を愛した 第一弾

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 暖かな微風を頬に感じながら呆然と昼下がりの町並みを眺めていた大津静樹、新宿の駅前だった。定職を持たない若者の集団、野宿も厭わないのであろう、彼もその中の一人だった。ヒッピーと言う若い厭世集団が既成の事実を嫌い主体的生活を好んだのである。ジョーン・バエズのフォークロックを愛した連中だ。実に静樹は高感度高い顔つきだ、その眼光には哀愁を感じざるを得ない、と言っても友は少ない、いや、必要ないようだ。「俺は何時も身軽だ、興味ある所へは行くぜ」、「俺は自然が友達だ、金は天下の回り物」所得欲のない男だった。思考思案しながら歩く姿は短身だが見劣りしない勇士を彷彿させるものだ、男の美学其のままだ。このまま蹲る(うずくまる)日本にも辟易だ。過る(よぎる)海の向こうへの好奇心が沸騰点を越えて時、横浜の大桟橋にその姿があった。「俺の唯一の財産はヤンキーのジーンズとバックパクだよ」と嘯いたのだ、革ジャン、白いTシャツにブルージーンズは正に赤木圭一郎そのものだった。

ナホトカから航路経由でのヨーロッパは格安行程で貨客船は若者で盛況である、津軽海峡での船体の揺れは初体験、食欲を失くした。船内には縁は無いが錚錚(そうそう)たる乗船客もいた。二日後にナホトカに着く初夏でもあり快い景観は忘れもしない、何か遠い昔の日本を感じた。下船すると待ち構えた様に子どもたちが駆け寄って来る、やはり服装も当時の様に継ぎはぎだ、口々にチュウインガムやボールペンを乞う呼びかけだ。スパシーバ(ありがとう)と何かを貰っては次々と駆け去っていく。思わぬことが去来した、終戦直後だった、通っていた幼稚園の米兵慰問で貰ったキャンディーの味を思い出し「おいこれこそ復古調だな」先々の思いを馳せ笑いながら一人呟いた。ここからハバロフスク(戦時中日本の軍用飛行場があった場所)迄はアイロフロート飛行機だ、それも四発デシプロエンジン旅客機にはオーソドックスな過去を感じた。そして以前の過激な体験が映え初めて飛行機に搭乗した、あの時の場景が脳裏を過ったのだ。数年前、自衛隊空挺団の訓練演習を経験しているのだ、全くの気まぐれで入隊した結果であった。汗と涙、そして血を吐くような訓練後、勇敢精鋭無視の印で胸に輝くウイングマークの為に五回の実地降下後、晴れてそれを胸に輝かす事が出来るのだ、それは羨望でもあった。最終降下は最悪な降下日和となった、軍用落下傘は強風にはお手上げで弱かった、それは最短距離を迅速に降下する為だけに製作されているからだ、もしそうでなければ地上からの砲撃に見舞われてしまうのでスカイダイビングとは著しく異なる。見る見る地上が競りあがって来た、危機を感じて最大限に対向操縦をした瞬間、軟らかい物が地面に叩き付けられたような感じが体に走った、形容すると大福餅が落下し地面上でぐしゃと広がる例えだ。数秒か数分かの断末魔が去った、「おお、生きているな、片方の足が動かない」、「痛てえ、あっ、動くな、背骨をやったな」、だが延々と地獄が待っているのだ、落下傘撤収後、全戦闘装備を整え無反動砲と言うバズーカ砲70キロもする砲を二人で担ぎ全速力で集結地まで走るのだ。炎天下でもあり鉄ヘルメットの中は火事場だ、痛い体を酷使し汗、また汗、悲痛な叫びと涙が溢れてくる既に死線を越えたかの畏服感か、只、生死のボーダーは消え去った。「おう、これが兵士の死を越えたと言う事か」凄惨過ぎる演習だ、実戦も演習もないあるのは国旗と言うものへの憧憬だけだった。一言が胸に焼き付いた「防ぎきれないものは、身を任す」、宮本武蔵は連戦無敗だ、彼は戦闘能力に卓越していた、彼が真剣勝負をしたのは28歳迄身体的に最高潮の時だ。戦う事は一つの哲学だ。こうした経験がその後の人生に於いての修羅場を潜り抜けられたのだと思う。右足を少しだがびっこを引くような歩き方になった、「哀愁を感じる後姿だ」と笑った。

難なくハバロフスク市に着陸する、降り立つと状況は相も変わらず子供たちがスパシーバを発しながら取り囲まれた。静樹は呟く「ガム、ペンを持って来れ良かった」と。次はモスクワだ、大陸列車での七日間である。三等寝台は寝るのに精いっぱいだ上下段の二段、ヨーロッパ目指す若者同士で話も弾んだ。情報交換をしながらそれぞれの背景を伺い知ることにある種の興味が湧く、何回も往復している者の中にはフィンランド語を話す者いた。

 

 

老人と少女 (ショートショート小説)続編二弾

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川元源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎を慈しみ可愛がった。母は商売が好きで自分で食品を扱う店を持ち、当時は未だコンビニがなくその周辺は中小企業が多くその作業員んが良く利用し繁盛した。元来、母の性格は丼計算だ、が、商売好きだったようでその事が私たちの生活を平穏に維持してくれた。中学校に入学する頃には源司郎の体も大きくなり、それが虐めから解放されたのであろう。源司郎は良くこう思ったその当時が第一の人生に於ける分岐点だった。彼の性格は勉強には不向きなようだ。しかし、こうも考えた学校時代の勉強は将来どのような効果をもたらすのだ、思案しているところへ一羽のカラスが舞い降りてきた、そしてカラスは言った「君、それは野暮な思考だよ、俺がこう飛べるのも教えの賜物だ。しかしな教えられる事は基本だけなんだ、それをどう展開していくかは君の裁量知能なんだがな」と話して再び飛び立っていった。源司郎は薄々と心に浮かびあがるものを感じ取っていた「母の愛も教えだな、生きていくには脳を育成させることが必須、それが勉強だな」。只、源司郎には生まれながらに持つ才能があった。小学生低学年の頃、友達と銭湯に行きはぐれたその時、動顛(どうてん)したのか帰れなくなってしまったのだ「何てことだ、この様な非現実的な事が起こることない大きな興味を持ったぞ」と心の中で叫んだ。日常起こり得る事。その向こうには真実が幻相し交錯しているんだと、幼心に芽生えた。それが源司郎の哲学的才能だったようだ。

源司郎は中学の高学年なるとヤンチャな世界へとはまって入った、何にもかも何故か空しかった喧嘩もよくした。しかし、悪になり切ることは出来なかった、それは同じ教室の後ろに座る女子生徒に心が惹かれるからか、彼女の名は多田文子、勉強の良くできた可憐で可愛い子だった、目が合うと何も言えなかった、初恋だったのであろう。今思っても熱い血潮が騒ぐ。勿論出来ないが今でも会いたい気持ちは変わらない。

高校時代は実に辟易した。源司郎とは掛け離れた工業高校だ、一つの事を限られた場所で一心不乱に同じ事の継続は無理だった。大きな欠点でもあるが長所とも言えなくもない、それは心は自由に舞えるからだ。其の頃は同年代の女子には大変良くモテた、子供の頃は顔の事で虐められたのが嘘のようだった、常に誰かが傍に居た。多くの変遷を経た今、心の中を流れ行く強く快い思い出だ。その頃より母にいずれは米国に帰ると伝えた、母は何も言わずに強く抱きしめてくれた。よく母の恩んは海より深いと言う、確かに海とは母と書くなと何となく感じた、源司郎の生涯はそれなくして考えられない、かった。定職が定まる事なく20代を疾走した、一段と精悍さが増した顔つきは彫の深さと相重なって神秘性を帯びた、ヘイズカラー(霞かかったブルー)の目の色はセクシーでもあった。ある時、有楽町を歩いていたら、映画評論家の多感な小森和子氏が源司郎の顔を見て振り向いた、源司郎の顔には口髭があったので彼女の好きなオマル・シャリーフを彷彿したのであろうか。20代の感性は最も大きく影を引く分岐点だ。その後の人生は其の延長線上でしかない、いやなかった。25歳の時。祖国の忠誠心だったかベトナム戦争に参戦した。誰も米国人と接してきた。戦場は恐怖と貧富な市民の怒号で渦巻いているだけだ。幼児が裸で泣きながら歩いているのを見た時、何も出来ない自分に嗚咽した。通称ベトコンと言う北ベトナム兵士だが、米兵と異なり筋金入りの命知らずだ。米兵には多くの戦死者が出た、ジャングルを行軍中、一米兵が路上の空缶を蹴った瞬間、凄まじい爆音と共にその兵士の片足が宙に舞った。源司郎もある時の移動行軍中に頭上の木が少しだけ騒いだ、ふと目を頭上の木にやると今にもライフル銃の引き金を引かんとするばかりの北ベトナム兵が潜んでいた。間一髪、源司郎は気が狂ったように木を目掛けて撃ちまくった銃弾を全て使い切った直後、激しい音を立てながら頭上の木から落ちて来た。煩雑な精神状態もないし何故か哀しみ同情感も皆無だった。「これが戦争か」と吐き捨てた、その時悲しそうな母の顔が瞼に浮かんできた、微笑を絶やさなかった母なのに源司郎は目は潤んでいた。生き延びた源四郎には鎮魂と言うくさびが心に打ち込まれた。

休暇で日本に立ち寄ると実に平和だった、すれ違う日本人の顔は何故か無表情に見えたが心に安ど感が流れた。只漠然と銀座を歩いた、日焼けした精悍さを増した顔、究極の修羅場にいる自分、何か大きな変化を自分に感じざるを得なかった。源司郎はこう思った、これが人間としての戦う哲学だ無事に除隊できたとしてもこの哲学が生涯への正道だと心に刻むのだった。耐え難い事態に遭遇する事はあるだろうが避ける事はしない「捌く」目を逸らす事もない。当時こう言う話も耳に入った、同じ日本からの参戦兵士が休暇で日本に立ち寄り、その平穏な様子を感じ脱走したのだ。「俺の人生にはあり得ないことだ」とだけ呟いた。休暇中、甘酸っぱい思い出もあった軍服が良く似合った、女子高生や女性がよく一緒に写真を撮らせて下さいと言われた。

原隊に戻り激しい戦いは続いた米軍は苦戦を強いられた。北ベトナム兵士は精神の戦いなのでゲリラ戦を含みありとあらゆる戦いで挑んできた。最前線ケサンの戦いは凄惨そのものだった。夜間になると最前線向こうに浮蚊の様に途轍もない数の北ベトナム兵士が一キロ眼前に浮き出る、援軍の空爆がそれを目掛けて始まる、空爆が終わると惨状は繰り返す、米兵はそのストレスに耐えられず麻薬浸りになったり狂ったように撃ちまくる。戦いとはこれほど無意味なものか戦場ではそれを補うものは何もなかった、生きるか死かだけだ。米軍に多くの戦死者が出、敗戦へと引きずっていった。戦場での戦闘期間八か月が終わり原隊へと戻った。其の後ニ年満期除隊となる、其の時、指の一本が第一関節から消えていた、名誉の負傷かと笑った。(現在になって感じる事はキーボード社会に於いては不自由はある、まして作家にしてはだ)。

東京に戻った源司郎は容姿も一変した。長髪細身筋肉質の体にジーンズカジュアルの容姿が短身に拘わらず良く似合った。元来、自惚れするとこがあり、遅い春を楽しんでいた。女性は次から次へと浸りながら変えていった。静寂に過ぎ去る日々が戦場とは比較にならないほど心を酔わせたのだ。あるきっかけでイラストレーターの道へと進むことにした。絵を描くことが好きな事なので、ましてファション画である。デザイナーの道を決意するのには時間が掛からなかった。それは二十代後半の時だった、好きなアメリカに戻り思う存分その夢を追う事にしたのである。

ロスの町並みは想像したものであった。気候も抜群だ、人間気質も米兵から感じたままだったしネガティブを見出す事は何もなかった。しかし、底辺をさ迷う人間にとっての生活は半端ではなかった。最低限は寝る場所と車、そして仕事だ。当初の夢は生活の多少の安定後と、今出来る仕事を就活した。老人ホームの看護人の仕事を探し当てた。この仕事が以後の人生に大きく使命感として残った。終焉の扉を開けたのだ。そこへ入所する人たちは最後のステージなのだ、それを知ってか知らないかは当人に取っては意に介してはいないだろう。トランク一つで渡米して来て、そのトランク一つで入所してくる、その光景は限りなく寂しく感じた。身寄りがなく体を壊して結婚も出来なかったのか五十代の男性、まだ社会で働けるのだ。自慰の姿を見た時深い虚しさを感じた。勿論、中には栄華を極めた人もいた。一応に言えることは老人になると認知機能が低下している、これはせめてもの人間としての最後の慰めの様に感じた、この場所は鮮烈なイメージは必要ない場所だ。生きると言う事は壮絶な闘なのだ、そうでなくてはいけない。戦う事を止めた時に流れに沿って下流に下るだけだ。歩くことを止めた時、歩けなくなった時、そして生か死かの選択となり、全ての人が生老病死で終わる。

源司郎はがむしゃらに働き続きた、その時代が味方し、動労組合の力が強く米国人はそれに守られてた、一般仕事でも高給が取れた、同時に二つの仕事を持った事もある。いつの間にか六十の歳の坂を越えていた。ファションの夢の欠片は遥か向こうへ飛んでしまっていた。だがそれとなく不自由を感じることない今を過去と比べて思う幸せは小さいものではなかった。渡米当時の仲間は見る影はなかった。国を捨て根ずく難しを物語っているようだった。搾りかすの様になって母国へ帰って行く姿は老人ホームで働いた時が彷彿されて仕方がなかった。

ある日、バス停のベンチの前を歩いていると一人の少女がベンチに座っていた。目が合うと少女は笑顔を向けた。その笑顔は正しく美しい瓜実顔のブルーアイズだ、見慣れた白人の顔だがこの時は一段と心に映えた、心の純粋な半鐘が鳴り続けた。ファンタステックこれは現実か、源司郎は尋ねた「何してるの」、少女は「散歩中疲れたので休んでいるの」、源司郎は続けた「何時も散歩するの」、少女は「体が弱いので途中ここで何時も休むの」、「好きな事は何」、「花を見たりお星さまを見たりすることね」、この様な情景会話が源司郎が何時も散歩する時にはあった。

源司郎の日常はB型なので趣向も気分屋だった、その中で物を書くと言う事は好きだった。文体での表現は亡き妻がよく褒めてくれた、妻は乗せて引き出す事には良くハマった。集大成の塊は作家であろうと思った事は確かだった。

何時もの様に散歩して何時ものベンチに来ると少女はいない、唖然としてベンチを見つめ直すとそこには一輪の白いバラが置いてあった。そのバラを手に立ち尽くしてしまった。ほんの少しの間だが長い時間んが過ぎたような気がした。ふと後方から女性の声がした、振り返ると美しい女性が立っていた、「私は少女の母です、散歩中は何時も後方から見守っていました」、「娘からは大好きなハンサムなおじさんが話し掛けてくれるの、と、聞いて言いました、私もそれを見て知っていました」、話は続く「娘は昨日心不全で亡くなりました」、聞くや否や源司郎の目から涙が止めどとなく溢れてきた、泪を拭く事もなく女性をハグして源四郎は言った「僕のせいです」意味不明だが呟いた。

耐えられない寂しさはあるもんだ。夜空を見上げると珍しく流れ星が出た。こんな美しい夜空は見たことがない、家のメールボックス見ると一通の手紙が入っていた、「母が心不全で昨日亡くなりました」、源四郎は「ああ、」嗚咽、嗚咽だった。少女と母が重なり合って「少女と母は同じ人だったのだ」と言い、源司郎の涙は止めどもなかった。

 

 

 

恋仕掛け

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少し間がありました。カリフォルニアにて明るい太陽の日を浴び創作活動に勤しんでいます。長く遠い道を歩いて来ました、船底に吸い付くツボ貝のように体に経験と言う貝が住み着きました。いつの日か銀座の文士が屯するクラブにひっそりと佇む姿を浮かべていますSometime!ヘミングウェイのような小説家が主旨んです。執筆の持ち味は揺れる感情がテーマです。はてなブログさん、書いて欲しい題名をください。

[恋仕掛け」

ある日の午後だった数枚の便箋が郵便受けに入っていた。開くとたどたどしい英文で書かれてあった、年男を掠めたのは数か月前に載せたペンパル欄である、空間を錯綜するケーブル網の中の一つの顔か。明確な挨拶のない英語を習いたいとの文面がそのものであった。時間との設定で易しくはないと伝え、貴方が日本語か英語を選び手紙かメールのどちらかをと書き添えました。高校生の少女と中年の女性からの返信がありました。少女は英語で書いてよこし完璧に近い英語でした。米人でも完璧に書く人は多くは無いのです、語彙を把握し適所に充てると言う事は言う迄もないのです。彼女のメールは新鮮ものでした、平井大君が好きで耳からイヤホンを離さないと言っていました。こう言う事は現代の若者の一般的な兆候と言っても差し支えない程根付いています。家族の写真も見せてもらい、一般的な幸福で平凡な感じはとても心が和みました。彼女自身の写真も現代風にモッタもので可愛かったですね。しかし暫くすると内容に自身以外の影が漂い見えてのです、消えるとか心理的に紛らわしいものとなって来ました。

もう一人は北国の御婦人でした。管理人をしているとの事でした、初めにくい感じがして気乗りはしなかったのですが、日を追うごとにざっくばらんとなり打ち解けたもとなって来ました。只不思議な事に双方の文章構成に共通性が見いだせなく、話が飛んでしまうのです。これは確実に影が見えました。双方を通して感じたことは人間の独自性が及ぼす影響はその人、本人の将来への価値感ですね。惑わす惑わされるこれは少なからず欠如を生むかもしてません将来に於いて。少ない時間でしたが私に取っては大いに有意義な体験でした。全く彼らに対しての心の留意はありません。むしろ楽しかったです。

 

荒馬と女

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荒馬と女

  手綱を力任せに引く、鼻息荒くようやく馬足を止めた。まるでムスタングだ、下馬するとグローブした手が痛かった。雌馬は手が掛かると吐き捨てるように言った。つかぬ間、馬が暴れ出した。慌てながら投げ縄を手に近づいた後ろ脚で立ち前脚をばたつかせた。焦りながらも慣れた手つきで縄輪をシュルシュルと回し馬の首に投げた縄は掠っただけで外れた。若い時は一発で決めたんだがな、少し足の踏み込みが遅れたようだ。危険を顧みず歩幅を狭めた、再びいきり立った前脚をバタつかせたこれは馬の牽制だ。少しあぶねえかなと心持少しビビった、二発目をシュルっと一回廻し投げた、ビシッと手応えを感じた、その縄を走り回りながら胴体に絡めていくのだ。自分でも何故か力以上のものを出しているようだ。汗と土埃で馬場は荒れた、ようやく観念したのか鼻息を鳴らし落ち着いてきた。男の疲れも激しかった、柵の上段に跨りそれを見ていた女がいた。男の息も荒い、肩で息をしながら満足気に女に近ずく、女が言った「ファンタステック」と呼びかけながら指で招いていた。女は金髪で透けるような白い肌だ。柵から飛び降り少し腰が揺れるモンローウオークしながら男と絡み深いキスをした。男の見せ場は闘牛士が動じず牛を捌く血を感じる場面であるようだ。男のロマンの影には美女との接点を仄めかすものが必要だ。男と女は肩を寄せ夜霧の中へ消えていった。それを追うように山並みが闇に沈んでいった。