老人と少女 (ショートショート小説)続編二弾

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川元源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎を慈しみ可愛がった。母は商売が好きで自分で食品を扱う店を持ち、当時は未だコンビニがなくその周辺は中小企業が多くその作業員んが良く利用し繁盛した。元来、母の性格は丼計算だ、が、商売好きだったようでその事が私たちの生活を平穏に維持してくれた。中学校に入学する頃には源司郎の体も大きくなり、それが虐めから解放されたのであろう。源司郎は良くこう思ったその当時が第一の人生に於ける分岐点だった。彼の性格は勉強には不向きなようだ。しかし、こうも考えた学校時代の勉強は将来どのような効果をもたらすのだ、思案しているところへ一羽のカラスが舞い降りてきた、そしてカラスは言った「君、それは野暮な思考だよ、俺がこう飛べるのも教えの賜物だ。しかしな教えられる事は基本だけなんだ、それをどう展開していくかは君の裁量知能なんだがな」と話して再び飛び立っていった。源司郎は薄々と心に浮かびあがるものを感じ取っていた「母の愛も教えだな、生きていくには脳を育成させることが必須、それが勉強だな」。只、源司郎には生まれながらに持つ才能があった。小学生低学年の頃、友達と銭湯に行きはぐれたその時、動顛(どうてん)したのか帰れなくなってしまったのだ「何てことだ、この様な非現実的な事が起こることない大きな興味を持ったぞ」と心の中で叫んだ。日常起こり得る事。その向こうには真実が幻相し交錯しているんだと、幼心に芽生えた。それが源司郎の哲学的才能だったようだ。

源司郎は中学の高学年なるとヤンチャな世界へとはまって入った、何にもかも何故か空しかった喧嘩もよくした。しかし、悪になり切ることは出来なかった、それは同じ教室の後ろに座る女子生徒に心が惹かれるからか、彼女の名は多田文子、勉強の良くできた可憐で可愛い子だった、目が合うと何も言えなかった、初恋だったのであろう。今思っても熱い血潮が騒ぐ。勿論出来ないが今でも会いたい気持ちは変わらない。

高校時代は実に辟易した。源司郎とは掛け離れた工業高校だ、一つの事を限られた場所で一心不乱に同じ事の継続は無理だった。大きな欠点でもあるが長所とも言えなくもない、それは心は自由に舞えるからだ。其の頃は同年代の女子には大変良くモテた、子供の頃は顔の事で虐められたのが嘘のようだった、常に誰かが傍に居た。多くの変遷を経た今、心の中を流れ行く強く快い思い出だ。その頃より母にいずれは米国に帰ると伝えた、母は何も言わずに強く抱きしめてくれた。よく母の恩んは海より深いと言う、確かに海とは母と書くなと何となく感じた、源司郎の生涯はそれなくして考えられない、かった。定職が定まる事なく20代を疾走した、一段と精悍さが増した顔つきは彫の深さと相重なって神秘性を帯びた、ヘイズカラー(霞かかったブルー)の目の色はセクシーでもあった。ある時、有楽町を歩いていたら、映画評論家の多感な小森和子氏が源司郎の顔を見て振り向いた、源司郎の顔には口髭があったので彼女の好きなオマル・シャリーフを彷彿したのであろうか。20代の感性は最も大きく影を引く分岐点だ。その後の人生は其の延長線上でしかない、いやなかった。25歳の時。祖国の忠誠心だったかベトナム戦争に参戦した。誰も米国人と接してきた。戦場は恐怖と貧富な市民の怒号で渦巻いているだけだ。幼児が裸で泣きながら歩いているのを見た時、何も出来ない自分に嗚咽した。通称ベトコンと言う北ベトナム兵士だが、米兵と異なり筋金入りの命知らずだ。米兵には多くの戦死者が出た、ジャングルを行軍中、一米兵が路上の空缶を蹴った瞬間、凄まじい爆音と共にその兵士の片足が宙に舞った。源司郎もある時の移動行軍中に頭上の木が少しだけ騒いだ、ふと目を頭上の木にやると今にもライフル銃の引き金を引かんとするばかりの北ベトナム兵が潜んでいた。間一髪、源司郎は気が狂ったように木を目掛けて撃ちまくった銃弾を全て使い切った直後、激しい音を立てながら頭上の木から落ちて来た。煩雑な精神状態もないし何故か哀しみ同情感も皆無だった。「これが戦争か」と吐き捨てた、その時悲しそうな母の顔が瞼に浮かんできた、微笑を絶やさなかった母なのに源司郎は目は潤んでいた。生き延びた源四郎には鎮魂と言うくさびが心に打ち込まれた。

休暇で日本に立ち寄ると実に平和だった、すれ違う日本人の顔は何故か無表情に見えたが心に安ど感が流れた。只漠然と銀座を歩いた、日焼けした精悍さを増した顔、究極の修羅場にいる自分、何か大きな変化を自分に感じざるを得なかった。源司郎はこう思った、これが人間としての戦う哲学だ無事に除隊できたとしてもこの哲学が生涯への正道だと心に刻むのだった。耐え難い事態に遭遇する事はあるだろうが避ける事はしない「捌く」目を逸らす事もない。当時こう言う話も耳に入った、同じ日本からの参戦兵士が休暇で日本に立ち寄り、その平穏な様子を感じ脱走したのだ。「俺の人生にはあり得ないことだ」とだけ呟いた。休暇中、甘酸っぱい思い出もあった軍服が良く似合った、女子高生や女性がよく一緒に写真を撮らせて下さいと言われた。

原隊に戻り激しい戦いは続いた米軍は苦戦を強いられた。北ベトナム兵士は精神の戦いなのでゲリラ戦を含みありとあらゆる戦いで挑んできた。最前線ケサンの戦いは凄惨そのものだった。夜間になると最前線向こうに浮蚊の様に途轍もない数の北ベトナム兵士が一キロ眼前に浮き出る、援軍の空爆がそれを目掛けて始まる、空爆が終わると惨状は繰り返す、米兵はそのストレスに耐えられず麻薬浸りになったり狂ったように撃ちまくる。戦いとはこれほど無意味なものか戦場ではそれを補うものは何もなかった、生きるか死かだけだ。米軍に多くの戦死者が出、敗戦へと引きずっていった。戦場での戦闘期間八か月が終わり原隊へと戻った。其の後ニ年満期除隊となる、其の時、指の一本が第一関節から消えていた、名誉の負傷かと笑った。(現在になって感じる事はキーボード社会に於いては不自由はある、まして作家にしてはだ)。

東京に戻った源司郎は容姿も一変した。長髪細身筋肉質の体にジーンズカジュアルの容姿が短身に拘わらず良く似合った。元来、自惚れするとこがあり、遅い春を楽しんでいた。女性は次から次へと浸りながら変えていった。静寂に過ぎ去る日々が戦場とは比較にならないほど心を酔わせたのだ。あるきっかけでイラストレーターの道へと進むことにした。絵を描くことが好きな事なので、ましてファション画である。デザイナーの道を決意するのには時間が掛からなかった。それは二十代後半の時だった、好きなアメリカに戻り思う存分その夢を追う事にしたのである。

ロスの町並みは想像したものであった。気候も抜群だ、人間気質も米兵から感じたままだったしネガティブを見出す事は何もなかった。しかし、底辺をさ迷う人間にとっての生活は半端ではなかった。最低限は寝る場所と車、そして仕事だ。当初の夢は生活の多少の安定後と、今出来る仕事を就活した。老人ホームの看護人の仕事を探し当てた。この仕事が以後の人生に大きく使命感として残った。終焉の扉を開けたのだ。そこへ入所する人たちは最後のステージなのだ、それを知ってか知らないかは当人に取っては意に介してはいないだろう。トランク一つで渡米して来て、そのトランク一つで入所してくる、その光景は限りなく寂しく感じた。身寄りがなく体を壊して結婚も出来なかったのか五十代の男性、まだ社会で働けるのだ。自慰の姿を見た時深い虚しさを感じた。勿論、中には栄華を極めた人もいた。一応に言えることは老人になると認知機能が低下している、これはせめてもの人間としての最後の慰めの様に感じた、この場所は鮮烈なイメージは必要ない場所だ。生きると言う事は壮絶な闘なのだ、そうでなくてはいけない。戦う事を止めた時に流れに沿って下流に下るだけだ。歩くことを止めた時、歩けなくなった時、そして生か死かの選択となり、全ての人が生老病死で終わる。

源司郎はがむしゃらに働き続きた、その時代が味方し、動労組合の力が強く米国人はそれに守られてた、一般仕事でも高給が取れた、同時に二つの仕事を持った事もある。いつの間にか六十の歳の坂を越えていた。ファションの夢の欠片は遥か向こうへ飛んでしまっていた。だがそれとなく不自由を感じることない今を過去と比べて思う幸せは小さいものではなかった。渡米当時の仲間は見る影はなかった。国を捨て根ずく難しを物語っているようだった。搾りかすの様になって母国へ帰って行く姿は老人ホームで働いた時が彷彿されて仕方がなかった。

ある日、バス停のベンチの前を歩いていると一人の少女がベンチに座っていた。目が合うと少女は笑顔を向けた。その笑顔は正しく美しい瓜実顔のブルーアイズだ、見慣れた白人の顔だがこの時は一段と心に映えた、心の純粋な半鐘が鳴り続けた。ファンタステックこれは現実か、源司郎は尋ねた「何してるの」、少女は「散歩中疲れたので休んでいるの」、源司郎は続けた「何時も散歩するの」、少女は「体が弱いので途中ここで何時も休むの」、「好きな事は何」、「花を見たりお星さまを見たりすることね」、この様な情景会話が源司郎が何時も散歩する時にはあった。

源司郎の日常はB型なので趣向も気分屋だった、その中で物を書くと言う事は好きだった。文体での表現は亡き妻がよく褒めてくれた、妻は乗せて引き出す事には良くハマった。集大成の塊は作家であろうと思った事は確かだった。

何時もの様に散歩して何時ものベンチに来ると少女はいない、唖然としてベンチを見つめ直すとそこには一輪の白いバラが置いてあった。そのバラを手に立ち尽くしてしまった。ほんの少しの間だが長い時間んが過ぎたような気がした。ふと後方から女性の声がした、振り返ると美しい女性が立っていた、「私は少女の母です、散歩中は何時も後方から見守っていました」、「娘からは大好きなハンサムなおじさんが話し掛けてくれるの、と、聞いて言いました、私もそれを見て知っていました」、話は続く「娘は昨日心不全で亡くなりました」、聞くや否や源司郎の目から涙が止めどとなく溢れてきた、泪を拭く事もなく女性をハグして源四郎は言った「僕のせいです」意味不明だが呟いた。

耐えられない寂しさはあるもんだ。夜空を見上げると珍しく流れ星が出た。こんな美しい夜空は見たことがない、家のメールボックス見ると一通の手紙が入っていた、「母が心不全で昨日亡くなりました」、源四郎は「ああ、」嗚咽、嗚咽だった。少女と母が重なり合って「少女と母は同じ人だったのだ」と言い、源司郎の涙は止めどもなかった。