人生を愛した 第一弾

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 暖かな微風を頬に感じながら呆然と昼下がりの町並みを眺めていた大津静樹、新宿の駅前だった。定職を持たない若者の集団、野宿も厭わないのであろう、彼もその中の一人だった。ヒッピーと言う若い厭世集団が既成の事実を嫌い主体的生活を好んだのである。ジョーン・バエズのフォークロックを愛した連中だ。実に静樹は高感度高い顔つきだ、その眼光には哀愁を感じざるを得ない、と言っても友は少ない、いや、必要ないようだ。「俺は何時も身軽だ、興味ある所へは行くぜ」、「俺は自然が友達だ、金は天下の回り物」所得欲のない男だった。思考思案しながら歩く姿は短身だが見劣りしない勇士を彷彿させるものだ、男の美学其のままだ。このまま蹲る(うずくまる)日本にも辟易だ。過る(よぎる)海の向こうへの好奇心が沸騰点を越えて時、横浜の大桟橋にその姿があった。「俺の唯一の財産はヤンキーのジーンズとバックパクだよ」と嘯いたのだ、革ジャン、白いTシャツにブルージーンズは正に赤木圭一郎そのものだった。

ナホトカから航路経由でのヨーロッパは格安行程で貨客船は若者で盛況である、津軽海峡での船体の揺れは初体験、食欲を失くした。船内には縁は無いが錚錚(そうそう)たる乗船客もいた。二日後にナホトカに着く初夏でもあり快い景観は忘れもしない、何か遠い昔の日本を感じた。下船すると待ち構えた様に子どもたちが駆け寄って来る、やはり服装も当時の様に継ぎはぎだ、口々にチュウインガムやボールペンを乞う呼びかけだ。スパシーバ(ありがとう)と何かを貰っては次々と駆け去っていく。思わぬことが去来した、終戦直後だった、通っていた幼稚園の米兵慰問で貰ったキャンディーの味を思い出し「おいこれこそ復古調だな」先々の思いを馳せ笑いながら一人呟いた。ここからハバロフスク(戦時中日本の軍用飛行場があった場所)迄はアイロフロート飛行機だ、それも四発デシプロエンジン旅客機にはオーソドックスな過去を感じた。そして以前の過激な体験が映え初めて飛行機に搭乗した、あの時の場景が脳裏を過ったのだ。数年前、自衛隊空挺団の訓練演習を経験しているのだ、全くの気まぐれで入隊した結果であった。汗と涙、そして血を吐くような訓練後、勇敢精鋭無視の印で胸に輝くウイングマークの為に五回の実地降下後、晴れてそれを胸に輝かす事が出来るのだ、それは羨望でもあった。最終降下は最悪な降下日和となった、軍用落下傘は強風にはお手上げで弱かった、それは最短距離を迅速に降下する為だけに製作されているからだ、もしそうでなければ地上からの砲撃に見舞われてしまうのでスカイダイビングとは著しく異なる。見る見る地上が競りあがって来た、危機を感じて最大限に対向操縦をした瞬間、軟らかい物が地面に叩き付けられたような感じが体に走った、形容すると大福餅が落下し地面上でぐしゃと広がる例えだ。数秒か数分かの断末魔が去った、「おお、生きているな、片方の足が動かない」、「痛てえ、あっ、動くな、背骨をやったな」、だが延々と地獄が待っているのだ、落下傘撤収後、全戦闘装備を整え無反動砲と言うバズーカ砲70キロもする砲を二人で担ぎ全速力で集結地まで走るのだ。炎天下でもあり鉄ヘルメットの中は火事場だ、痛い体を酷使し汗、また汗、悲痛な叫びと涙が溢れてくる既に死線を越えたかの畏服感か、只、生死のボーダーは消え去った。「おう、これが兵士の死を越えたと言う事か」凄惨過ぎる演習だ、実戦も演習もないあるのは国旗と言うものへの憧憬だけだった。一言が胸に焼き付いた「防ぎきれないものは、身を任す」、宮本武蔵は連戦無敗だ、彼は戦闘能力に卓越していた、彼が真剣勝負をしたのは28歳迄身体的に最高潮の時だ。戦う事は一つの哲学だ。こうした経験がその後の人生に於いての修羅場を潜り抜けられたのだと思う。右足を少しだがびっこを引くような歩き方になった、「哀愁を感じる後姿だ」と笑った。

難なくハバロフスク市に着陸する、降り立つと状況は相も変わらず子供たちがスパシーバを発しながら取り囲まれた。静樹は呟く「ガム、ペンを持って来れ良かった」と。次はモスクワだ、大陸列車での七日間である。三等寝台は寝るのに精いっぱいだ上下段の二段、ヨーロッパ目指す若者同士で話も弾んだ。情報交換をしながらそれぞれの背景を伺い知ることにある種の興味が湧く、何回も往復している者の中にはフィンランド語を話す者いた。