時めかざるを得ない人生の一ページ

少女の名は杏沙と言った。日本人である、そうバイクを担ぐようにして貨客船に乗船して来た。長い脚は甲板とデッキの軋轢を感じた。バイクの駐車場所は船底だ、そのラインに沿ってその場所に止めベルトで押さえた。再びデッキに戻り船舶が出ようとしている桟橋を見ると一羽のカゴメが急降下して頭を掠めた。思い出のある日のことが蘇った。

ざわつく浜辺を二人で歩いていた月光が信二を照らしていた、彫の深く鼻筋が通ったそれは見事なまでのバロック造形されたような顔立ちだ。杏沙は言った「信二 この先どうするの」、信二は無言だった。ヒョイと貝殻を拾い海面に添うように投げた、「なるようになる」と言い放った。杏沙のバイクに戻った、何時ものように長い脚が宙を舞いシートにおさまった、信二もタンデムシートに身をおいた。瞬時アクセルを絞るのでエキゾーストの爆音、タイヤの軋みを残して消え去った。

インカム越しに「信二 あの子に未練ある」信二は杏沙の腰に回した両手に力を入れ「うん あるけどオレの体もそれほど長くない」、冷たいハグった両手からは寂しさを感じた。

信二は宿でホストをやっていたそうだ、その前はキックボクサーであった、以後その古傷に身を置くことになってしまう。そのホスト時代、早い時間に歌舞伎町に着いたので久しぶりに歩き回ってみた、かなりの混雑だ「雑踏もいいもんだ」独り言を呟いていた。辺りは薄暗くなってきた、場に似合わない女の子がとぼとぼと歩いていた、信二と並行線上に並んだ、歩調を合わせるように歩き始めた。横目を流すと彼女は色白の正しく美少女だ、彼女も見つめた。するとたじろぐような彼女の姿勢が揺れた。言うまでもい美男美女同士だ一つの雰囲気が生まれない訳がない目線の振り向きだった。信二がさりげなく「何処へ行くの」、彼女はモソモソと、ではあるが悪びれることはなく「ホストクラブ」、話が数秒止まった深いため息が信二から漏れた、路上ナンパでは決して言わない言葉で「そこは君の行くところではないよ」何故か少し強い口調になっていた。

ローソクの明かりが灯る静かな雰囲気のカフェに二人はいた、新宿は信二の溜り場だ熟知したいる。彼女が口を開く「何をしているんですか、声を掛けてくれてありがとう」信二の目を見ながら言った、先程注文したコーヒーとレモンスカッシュをウエイトレスがテーブルに置いた、信二はコーヒーを常にブラックで飲む、苦みが芳醇に口内に広がっていく感じがたまらなかった。信二の白人並みの彫の深さがそれとよく似あった。薄明りの中に映る彼女の顔は寂しさも感じるが幻想性があり見つめているだけで十分だ、言葉はいらなかった。コーヒーを飲み干し「興味があるの」、優しい静かな声で「行ってみたかったの」、会話は止まった、聞き返さなかった。信二「オレ ホスト」、彼女は顔色も変えずに静かに言った「良かった、私、白血病と言う病気なんです、好奇心を出来るだけ満たしたいのです、生きている間に」。信二はそれとなく目で話を進めているようだ、「君の名はスズランとしよう、清楚だ」と言い切ると彼女は笑みを浮かべ無言だった。ホストハウスのフロアーは明かりを落とした空間に豪華なソファーが間隔を開け置かれていた。フロアーに漂う香りも心なしか心を和ました、信二の顔も眩しかった話をすることもあまり必要ではなかった。、スローなダンスサウンドが快くステージに流れた。信二はスローバラードなステップを踏む、スズランの体は高身長の信二の胸に吸い込まれていく。時間の流れに気を止めることもなかった、どことなくシャンペンコールが始まっていた。信二の優しい手がスズランの肩をつつんでいた、「お幾らですか」、信二のウインクが返事だった。表に出て「思い残すことないわ」スズランは信二にゆっくり静かに言ったのだった。そう思い続けて欲しかったのが信二の心だ。

数週間後、信二の携帯に連絡が入る「もうだめかもしれない」途絶える声であった、「うん 分かった、後から行くよ」と話を落とす、この先は話すことは不要であった。信二は虚無哲学の素養も持ち合わせていた。無表情な目から涙だけが溢れ出ていた。

クラブに向かう途中、携帯のコールが入った「信二さんですね ナースです、今朝5時に逝かれました、患者さんからそう連絡するように言われていましたので」、いなや信二の手から携帯が路面に落ちた。拾うことなく雑踏の中に立たずむのだった。その時、ヤンキー風の若者が信二の肩に肩をぶつけてきた、「何やってんだ 退け」相手は三人だ、信二は無意識のうちに身構えた、間に初を入れずパンチが飛んできた、身をかわすのも自然に動いた何時ものように反射的に信二の膝が一人の脇腹に入った、崩れた。後方の一人には回しパンチを入れた、崩れた。斜め前の一人には内回し踵落としが鎖骨に音をたてた、ほんの数分の出来事だった。「何故だ 俺に向かってくる何て」呟きながら足早にその場を去った。

そして数日後、同室している妹に「兄ちゃん 行くところがあるんだ、何か欲しいものあるか、「うん 兄ちゃんのバイクが欲しい」、「やるよ 可愛がってな」言い残して後にした。信二は杏沙にコールした「約束だ オレは行くよ」、「えっツ 何処へ」その後、杏沙の携帯は繋がらなかった、杏沙の耳にはあの時の潮騒が聞こえてくるようだった。

ビャクダンの香りとともにヤシの帆影を走る杏沙の姿があった。

 

                 多大 和彦 トーマス