赤い褌

  隅田川の土手より見つめる太郎の姿あった。そこには赤い褌を締め肩に筋肉の塊がある赤銅色に染まった50歳がらみの男がいた。足のふくらはぎの筋肉は二つの丘陵となりくっきり割れ浮かび上がっている。土手にある艀(はしけ)迄歩み寄ると一気に体を平行に水面へ突き刺すように飛び込んだ。水には慣れている感じを強くしたのは行き成り抜き手泳ぎを始め難無く向こう側の川岸に泳ぎ切る、水から上がると太郎の体は筋肉の活性があり一層盛り上がった、白い歯を見せ対岸に向かって手を振るのだった。日傘をさした妙齢の美しい女性が笑顔で手を振り返していた。

太郎が生まれたのは戦直後の東京だった、そして当時は皆飢えたいた。街には浮浪者も多く、ただ進駐軍と言う占領米兵だけが我物顔で歩く姿が目に映った。母はパン助と言う米兵相手のサービス業をしていた。それほどその時の女性の生きる環境は最終線を遥かに超えたいた。東京の空だけはヤケに青く澄み切って夜空は星が降るようだった。太郎は二歳の頃の出来事を鮮明に覚えている、焼夷弾の絨毯爆撃で焼け野原が東京の各所に散在した、母親におぶさりネンネコで温かく覆われ親子姿で近道であったのであろうその焼け跡野原がだ。太郎がふと後ろを振り向くと戦闘帽(戦地からの帰還兵の多くは今のキャップのように被っていた)を目深に被り男らしき者が近づいて来た、突如母の買い物袋を引っ手繰るとその者はニヤニヤして走り去って行った。母は咄嗟にドロボーと叫んでいた。が、治安の悪い闇夜の焼け跡だ打つ手がない、無かった。太郎は二歳だったがその記憶は確か過ぎた。それは多くはない生活費だったのだ。

親子で住んでいたのはドヤ街の四畳半安宿泊所だ、日の射さない薄暗い所だった。三歳になった頃、母が朝帰って来て板状の物を渡してくれた、早速封を開けると濃い茶色の菓子のように見え一欠片を口に含むと、驚嘆するほどの味で標点が定まらないような旨さとともに笑顔が自然と込み上げてきた。後年それが母の味で食べるたびに慰めとなり瞼が熱くなるのだった。母の目は涙で溢れていて言葉が掠れる「太郎 御免ね母ちゃんは行かなければならないんだよ、お前の父ちゃんは米兵だよ、分かる」、太郎は聞き分けが良く手の掛からない子だった、おぼろげながら太郎は理解しているようだった「うん 分かった母ちゃん」一言だけ言った。無邪気な息子を見ていると母は嗚咽の声となってしまっていた。

親子が立っているのは光の家と言う孤児院の前だった、母の目からは涙だけが無言で流れ落ちている、太郎も察したのか泣いたことのない目からポツリと涙がこぼれた、「太郎 このお守りは母ちゃんだと思って寂しい時には話しなね」と太郎の首に掛けてくれた。太郎は日頃から決して無理を言わない子だった、後追いすることも出来たが母の胸中を察すると可哀そうであり、自尊心らしきものが許さなかった。「母ちゃん 大丈夫」とだけ口にするのがやっとだった。そしてその後会うことはなかった。

院内では一人でいることが多かった、やはり他とは違う顔立ちなのでいじめとはいかないまでも「お前 何処から来た」と時々言われた。でもお互いに過去を持っているのでそれ以上は進まなかった。太郎の顔は母に似たのか日本人ぽさもあったのが幸いした。太郎は勉強は好きな方ではなかった、いわゆるB型は興味のある事にははまり込むがそうでもない事にはとんと駄目であった。近くの川べりの土手を一人で歩くのが好きだった、みのも(水面)を見、大空に浮かぶ雲を見、頬に感じる季節の風に明日を映し描写していくのだった。ある日の光景が鮮明に焼き付く出来事が始まろうとしているのであろう、一隻の達磨船が川辺の土手に停泊し積み荷の石炭を土手の反対側の工場置き場に積み下ろす途中だった。達磨船と土手に足場の渡し板を掛け、その板沿いに天秤棒の両端に平たい籠を付け船倉から石炭を両側均等に石炭を入れ、細い渡し板を調子を合わせて行き来して船倉から工場置き場迄石炭を運ぶのだ。単調に見えるが熟練した技とリズムが是が非となる。そのなかの一人で赤い褌をした沖仲士(職業名)がいた、彼の足のふくらはぎは腓腹筋側頭と腓腹筋外側頭に明確に別れ二つに割れ丘陵となっている、肩幅も広く重動労に鍛えられた体があった。きりりと締めた褌が尻に食い込み肉体動労の躍動感と美観をも十分感じる。

時の流れは風のように音こそしないが過ぎていくざわつきは感じざるを得ない。来年は中学を卒業だ、高校卒業迄は院では可能だがその選択は彼にとっては意味をなさない。早く社会に出ることは経験と言う方向性を体を持って接受したかったのだ。

太郎は院の門の前にいた、ため息をつきながら脳裏では走馬灯が逆回転し始めた、最後に母ちゃんと別れた同じ場所だ「母ちゃん これからは標の無い道を歩かねばならないが負けないよ」と心に止めあの時の母のくれたお守りを握りしめた。そう多くはない持ち物を大きめのボストンバッグに収め、院長先生以下スタッフに挨拶をしながら門を出た。丁度その時だ、同級生だった女子生徒が数人駈け寄って来た、「太郎 頑張ってね、太郎は大人しいからもっと元気をださないとね」、「太郎 女生徒には人気があったんだからね」、「太郎 もし今度会ったら喫茶店に連れてってね」、「あっツ ずるい売り込んでる」、てんでんに言いたいことを言いながら見送ってくれた。

下町の旋盤工場で働くことになった、薄暗い工場内、機械油の匂いが鼻につく、同じ工作の繰り返しだ。何のためだ自問した、答えは虚しかった「太郎君 食うためだよ」自答が山彦のように耳に反響した。近くの駅に太郎の姿があった、どこか寂しさを感じる無表情だった、トラック助手募集が駅の掲示板に貼ってあった。真夏の炎天下での積み荷作業だ玉の汗が流れ落ちる筋肉労働だ。しかしその雰囲気は不協和音のようなジャズめいた一心不乱の境地に共鳴していった。仕事後の爽快さは太郎の好みにマッチした。明日は成人式だ、大型免許も取得したし、一応 納得のいく人生行路、「そうだ あの時のあの仕事士の上書きを我が身に複写しよう」、「我が肉体への筋肉を通じて語りかけながら明日を追いかけてみよう。

あの時の赤い褌の沖仲士だ。この仕事は船舶を管理する組合から停泊場所を受け取るので日雇いだ。積み荷は石炭、米俵、セメント袋等重量物だ、汗と筋肉の軋みと巧みなリズムだ。太郎の体は見事なまでに筋肉の鎧となっていった。相変わらず一人暮らしだ、家事も細目にこなし不自由はなかった。食事も菜食中心で外食もほぼしない、(あのゴリラはマッチョだが菜食だ)、独り言。確かに本をよく読んだ、漢字も時々は誤判断するがそれなりに乱読するうちに文章の繋がりから解読できていった。太郎は油の乗り切った40歳になっていた。

何時ものように足場の渡し板をリズムよく渡っていると、土手の上で見つめる目線を感じた、犬を連れ日傘をさした女子のようであった。昼食となり土手に上がりこれも何時ものように玄米弁当の蓋を開けると、何時ものように梅干しと葉物の漬物と干し魚、そして緑茶ではなくコーヒーと言う不協和音だった。すると何処かで太郎と呼ぶ声がした、それも太い声ではなく綺麗なソプラノだ。ふと横を見ると5メートルほど先で女子が犬を呼んでいるのだった。太郎は吹き出してしまった、するとそのお嬢さんが「御免なさい、太郎がそちらへ行こうとしたもので呼んだのです」、「いや別に問題ありませんよ」太郎は笑い返してこう言った「ボクも太郎なんです」。そして暫く笑い声が止まらなかった。時々その土手に姿を見せるようになった、彼女は看護師として勉強中であったのだ。特に人の筋肉についても勉強中だとも話してくれた。「私 18歳です」、「そう見えますよ」太郎は笑みを浮かべて言った。

あれから10年経っていた。泳ぎ返してくる太郎に向かって「今日は何を作ったくれるのー」、嬉しそうな声が太郎の耳に入った、「何でも言ってー」太郎もそう言われるのが好きだった。

              多大 和彦 トーマス