漁場に重なる声は大きかった。憲一がまだ中学生の頃だ、自慢の父は褐色の肌に鉢巻をし大漁旗を上げて帰港するのが常だった。東北日本海に面した漁場である、その日は待てど父の漁船が見えない。憲一は笑い声が大きい父の顔を来る日も来る日も港に待つが帰らない。皆口々に「領海を超えたんだろう」噂が聞こえるのだったのだ。

「父ちゃん帰らないよ」母に言った、沈んだ顔で母は「そうだね、困ったね」ぶつぶつと独り言のように言った。晩夏も過ぎ去ろうとする日に母が「父ちゃんは何処かで生きているよ、ここで待とうね」心なしか虚ろな目で水平線を指さした。

憲一が行く学校に一人の女の子の級友がいた彼女はクラスの委員長だ、前から友達になりたいと思っていた。よく帰る道が同じなので一緒になった、進路の話が多く話題は高校だった。父のいない今はそのことに関して聞くだけで自分からは出来なかった、このまま高校へ行けば母への負担が大きい事は感じていた。母にその事を話すつもりはない話せば母の事だから返事は「そうしなさい」である。しかし、学費の問題で心配をかけてしまう事は分かっていた。

彼女から誘いの声がかかった、あの山の沢沿いに蛍の聖地があるそうだそこへ行かないかとのことだ、母も一緒でいいとの話である。何万匹の蛍が流れる川のように映るようだ。三人と彼女の叔父さんが付き添うそうだ、その叔父さんがその話を持ち出した本人である。山道を四人は懐中電灯を下げ黙々と歩くのだ「今年は壮観になる」叔父は言った。一帯は暗くなり懐中電灯の明かりを頼りに更に奥へ入って行った。いつの間にか二手になっていた、母と叔父さん、憲一と彼女だ

一面蛍だ、そこは口には出せない程の壮観さだ。母と叔父さんは後からたどり着いた、そこには憲一と彼女が向かい合って手を握って立っていた。