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今回は侍の心と言う題で過ごした日本を書いてみたい。

俺は日本を愛した。そう東京の下町で過ごし多くの事を受けた、当時のこの場所は確かに飢えていた、駐留米兵の投げてくれるチョコレートの味には驚嘆した、私が愛した母が作ってくれる飴は酢と砂糖を混ぜ合わせ熱したものだ。当然比べられるものではない。それでも母と二人で舐める時は何時も幸せな気持ちに浸ったもんだ、全てが欠乏した時代でもそうであった。ママズボーイだったので遂でてしまう、よくこう言われた「母の腰巾着だ」と冷やかされた。

ドンボスコ幼稚園、そこはクリスチャン系の園で米牧師が園長をしていた。母に連れられて来たのは小学校へ上がる前の一年、最初の頃は母と一緒に来たいとお願いした。が、帰って行くと必ず泣いた、少しずつは慣れてきたのだがB型の俺は子供らしからず一人遊びが多かった。隣に住む同年の森田真理子ちゃん、偶然同園だったことを知る俺は早熟であったのであろう彼女がよくかっちゃん(俺の愛称)可愛いね、と言われると照れ臭かった、彼女が引っ越す前までは一緒に通園した。彼女が手をつないでくるので嬉しかった、あれは紛れもない初恋であったと言う思いは淡いものだが足跡として刻まれた事は決して小さいものではない。ある曇りの日に母が園長先生が「雲に露」と挨拶で言ったと言うのだ。母は感心して天気模様を日本語で話したと言う。俺は不思議がって考えた、毎朝先生はグッドモーニングと英語で挨拶をする、そこでひらめいた、あっそうか、グッドモーニングが母の初めての耳には雲と露と聞こえるのだ、一人で大笑いした。無論そのことは母には話さなかった。俺が英語を耳にしたのは其の頃だったな。まさか後年になって米国住もうとは当時想像もつかないことだった。東京の空は果てしなく澄んでいた星も降るように咲いていた。

小学低学年の時にハリウッド映画が到来しアメリカの優位性を否が応でも感じ取った。ゲイリークーパー、ジョンウエーン、タイロンパワー、エロールフリン、ロバートミチャム、画面もイーストマンカラーと言う総天然色だ。正しく別世界。母に聞いたことがある「大きくなったら住める、あの飛行機に乗って」母は言った「住めるよお前は権利を持っているからね」少し困惑したことを昨日のように覚えている。そう言えば父のことは何も言わなかった、不自然さは目の色と顔だけで別に父のことは俺も聞かなかった。朝鮮戦争が始まったのも其の頃であった。日本は輸送基地となり軍需景気を伴い現在への礎となったのだ。ではあるが米国は最初の敗戦と言う考えられない事が起こったのだ、多くの青年兵士が戦没していった。マッカーサー元帥、大二次大戦の英雄だ、彼が指揮を降格になた戦上の問題(これが言うべきではないであろう)でだ。元帥はこう言って帰国していった「老兵は死なず、只去るのみ」。其の後ベトナム戦争にも勝てなかった。何故超大国が、されはあまり難しくない。この逸話を紹介しよう、ベトコン(北ベトナム兵士の俗称)の一兵士が捉えられてヘリで空中に持っていかれ米兵からこう言われた「お前が白状しないとここから突き落とす」べトコンはこう返した「俺がもう一度生き返ったらお前らを八つ裂きにしてやる」と言って唾をかけた。彼の命の華は空中に舞って行った。そう言う魂機根があればこそだ。彼らは侍だ、以外の何者でもない。 常に私は哲学、瞑想、空手からこの心を伝承していく、俺はもしかしたらヒーローかも。