感情なる世界

この世界が感情的に再現され幸福と言うものを追い求めても答えは無所得である。世界は人間の為だけに出来ているのでい、世界で起こりえる問題は苦渋なる選択かもしれない。果たして世界はどの方向へ行こうとしているのか、深淵なる答えを導き出し国の勃興は収まらない。幸福との言葉の響きから意図もすると理想的なものがあるような気がするが、残念ながらそうは出来てはいない、人間とは地球上に於ける煩雑な苔である無慈悲に侵略を続けるのである。一握りの思考によって行動は起こされる。

漁場に重なる声は大きかった。憲一がまだ中学生の頃だ、自慢の父は褐色の肌に鉢巻をし大漁旗を上げて帰港するのが常だった。東北日本海に面した漁場である、その日は待てど父の漁船が見えない。憲一は笑い声が大きい父の顔を来る日も来る日も港に待つが帰らない。皆口々に「領海を超えたんだろう」噂が聞こえるのだったのだ。

「父ちゃん帰らないよ」母に言った、沈んだ顔で母は「そうだね、困ったね」ぶつぶつと独り言のように言った。晩夏も過ぎ去ろうとする日に母が「父ちゃんは何処かで生きているよ、ここで待とうね」心なしか虚ろな目で水平線を指さした。

憲一が行く学校に一人の女の子の級友がいた彼女はクラスの委員長だ、前から友達になりたいと思っていた。よく帰る道が同じなので一緒になった、進路の話が多く話題は高校だった。父のいない今はそのことに関して聞くだけで自分からは出来なかった、このまま高校へ行けば母への負担が大きい事は感じていた。母にその事を話すつもりはない話せば母の事だから返事は「そうしなさい」である。しかし、学費の問題で心配をかけてしまう事は分かっていた。

彼女から誘いの声がかかった、あの山の沢沿いに蛍の聖地があるそうだそこへ行かないかとのことだ、母も一緒でいいとの話である。何万匹の蛍が流れる川のように映るようだ。三人と彼女の叔父さんが付き添うそうだ、その叔父さんがその話を持ち出した本人である。山道を四人は懐中電灯を下げ黙々と歩くのだ「今年は壮観になる」叔父は言った。一帯は暗くなり懐中電灯の明かりを頼りに更に奥へ入って行った。いつの間にか二手になっていた、母と叔父さん、憲一と彼女だ

一面蛍だ、そこは口には出せない程の壮観さだ。母と叔父さんは後からたどり着いた、そこには憲一と彼女が向かい合って手を握って立っていた。

 

幸せ

耳元に聞こえる微かな音色はジャズだ、小説を書く時に筆体はアドリブになる思考と重なって協和音に置き換えられる。書くことに於いて精神は疾風になり重ね書きが始まるどうであったかああであったか文章は進んでいく、そうだあの時はこうだった、と独り言を言い書き進む、そこには過去にあった出来事が鮮明に頭に映る、そして文章は続いていくのだった。ある日の午後、呼ぶ方の方向に顔を向ける誰もいない、これは書くことに於いての錯覚であろう。楽しさは書くことよる連鎖反応である。そして文章は続くのだった。

             多大 和彦 トーマス

グローバル化されてしまった世界 自然との共鳴は可能か

2019年末にパンデミックと言う姿なき無言の威圧が限りなく世界を席巻するとを誰が疑っただろうか。だがウイルスは忍び寄っていた事は確かなる事実だ、その足音は心なしかざわつきを表していた。2004年鳥インフルエンザが人体に影響を及ぼすようになった、ウイルスの行き場が生命体を介して媒介と言う効率性を上げて来た。地球環境はウイルスと自然界に於いて未必の故意に当たるような必然性がある。少し以前にサーズ、マーズウイルスが鳥獣類を通して感染が始まっていた。以後、人へと移行し人の間を介した感染となっていく、その後、小康状態が継続して今日に至る。

人間の世界もそれと平行線上に間接的な行動行為が可能となるインタネット世界がより重く頭をもたげてきた。所謂リモートを旨とするネット世界だ。これは全てに於けるアクセスが可能となるであろう、いや可能だ。そこで最大の懸念材料が生じる、政府が個人のプライバシーを確実に掌握出来ることだ。ではあるが世界の人口の全てには不可能である。ただターゲットとなると話は別だ。より密度のある暗号化が必要となり政府に加担するような企業でなければ脅威とする事もないであろう。

この二つは思考内回路に収めることは必須で共存形態を構築する事は大切である。今後起こり得る諸条件は地球環境変化による災害及び自然災害に対して自己の精神的免疫を上げることと、変異するウイルスへの対処である。ワクチンの云々を問うがワクチン接種がなければ結果は甚大になったであろう、集団免疫を構築し個人の免疫向上にも寄与する。ではここで問題となるのは特異体質と突発性特異体質である、言及するがこれは神の領域となってしまうであろう。

        傑出の一遍    多大 和彦 トーマス

赤い褌

  隅田川の土手より見つめる太郎の姿あった。そこには赤い褌を締め肩に筋肉の塊がある赤銅色に染まった50歳がらみの男がいた。足のふくらはぎの筋肉は二つの丘陵となりくっきり割れ浮かび上がっている。土手にある艀(はしけ)迄歩み寄ると一気に体を平行に水面へ突き刺すように飛び込んだ。水には慣れている感じを強くしたのは行き成り抜き手泳ぎを始め難無く向こう側の川岸に泳ぎ切る、水から上がると太郎の体は筋肉の活性があり一層盛り上がった、白い歯を見せ対岸に向かって手を振るのだった。日傘をさした妙齢の美しい女性が笑顔で手を振り返していた。

太郎が生まれたのは戦直後の東京だった、そして当時は皆飢えたいた。街には浮浪者も多く、ただ進駐軍と言う占領米兵だけが我物顔で歩く姿が目に映った。母はパン助と言う米兵相手のサービス業をしていた。それほどその時の女性の生きる環境は最終線を遥かに超えたいた。東京の空だけはヤケに青く澄み切って夜空は星が降るようだった。太郎は二歳の頃の出来事を鮮明に覚えている、焼夷弾の絨毯爆撃で焼け野原が東京の各所に散在した、母親におぶさりネンネコで温かく覆われ親子姿で近道であったのであろうその焼け跡野原がだ。太郎がふと後ろを振り向くと戦闘帽(戦地からの帰還兵の多くは今のキャップのように被っていた)を目深に被り男らしき者が近づいて来た、突如母の買い物袋を引っ手繰るとその者はニヤニヤして走り去って行った。母は咄嗟にドロボーと叫んでいた。が、治安の悪い闇夜の焼け跡だ打つ手がない、無かった。太郎は二歳だったがその記憶は確か過ぎた。それは多くはない生活費だったのだ。

親子で住んでいたのはドヤ街の四畳半安宿泊所だ、日の射さない薄暗い所だった。三歳になった頃、母が朝帰って来て板状の物を渡してくれた、早速封を開けると濃い茶色の菓子のように見え一欠片を口に含むと、驚嘆するほどの味で標点が定まらないような旨さとともに笑顔が自然と込み上げてきた。後年それが母の味で食べるたびに慰めとなり瞼が熱くなるのだった。母の目は涙で溢れていて言葉が掠れる「太郎 御免ね母ちゃんは行かなければならないんだよ、お前の父ちゃんは米兵だよ、分かる」、太郎は聞き分けが良く手の掛からない子だった、おぼろげながら太郎は理解しているようだった「うん 分かった母ちゃん」一言だけ言った。無邪気な息子を見ていると母は嗚咽の声となってしまっていた。

親子が立っているのは光の家と言う孤児院の前だった、母の目からは涙だけが無言で流れ落ちている、太郎も察したのか泣いたことのない目からポツリと涙がこぼれた、「太郎 このお守りは母ちゃんだと思って寂しい時には話しなね」と太郎の首に掛けてくれた。太郎は日頃から決して無理を言わない子だった、後追いすることも出来たが母の胸中を察すると可哀そうであり、自尊心らしきものが許さなかった。「母ちゃん 大丈夫」とだけ口にするのがやっとだった。そしてその後会うことはなかった。

院内では一人でいることが多かった、やはり他とは違う顔立ちなのでいじめとはいかないまでも「お前 何処から来た」と時々言われた。でもお互いに過去を持っているのでそれ以上は進まなかった。太郎の顔は母に似たのか日本人ぽさもあったのが幸いした。太郎は勉強は好きな方ではなかった、いわゆるB型は興味のある事にははまり込むがそうでもない事にはとんと駄目であった。近くの川べりの土手を一人で歩くのが好きだった、みのも(水面)を見、大空に浮かぶ雲を見、頬に感じる季節の風に明日を映し描写していくのだった。ある日の光景が鮮明に焼き付く出来事が始まろうとしているのであろう、一隻の達磨船が川辺の土手に停泊し積み荷の石炭を土手の反対側の工場置き場に積み下ろす途中だった。達磨船と土手に足場の渡し板を掛け、その板沿いに天秤棒の両端に平たい籠を付け船倉から石炭を両側均等に石炭を入れ、細い渡し板を調子を合わせて行き来して船倉から工場置き場迄石炭を運ぶのだ。単調に見えるが熟練した技とリズムが是が非となる。そのなかの一人で赤い褌をした沖仲士(職業名)がいた、彼の足のふくらはぎは腓腹筋側頭と腓腹筋外側頭に明確に別れ二つに割れ丘陵となっている、肩幅も広く重動労に鍛えられた体があった。きりりと締めた褌が尻に食い込み肉体動労の躍動感と美観をも十分感じる。

時の流れは風のように音こそしないが過ぎていくざわつきは感じざるを得ない。来年は中学を卒業だ、高校卒業迄は院では可能だがその選択は彼にとっては意味をなさない。早く社会に出ることは経験と言う方向性を体を持って接受したかったのだ。

太郎は院の門の前にいた、ため息をつきながら脳裏では走馬灯が逆回転し始めた、最後に母ちゃんと別れた同じ場所だ「母ちゃん これからは標の無い道を歩かねばならないが負けないよ」と心に止めあの時の母のくれたお守りを握りしめた。そう多くはない持ち物を大きめのボストンバッグに収め、院長先生以下スタッフに挨拶をしながら門を出た。丁度その時だ、同級生だった女子生徒が数人駈け寄って来た、「太郎 頑張ってね、太郎は大人しいからもっと元気をださないとね」、「太郎 女生徒には人気があったんだからね」、「太郎 もし今度会ったら喫茶店に連れてってね」、「あっツ ずるい売り込んでる」、てんでんに言いたいことを言いながら見送ってくれた。

下町の旋盤工場で働くことになった、薄暗い工場内、機械油の匂いが鼻につく、同じ工作の繰り返しだ。何のためだ自問した、答えは虚しかった「太郎君 食うためだよ」自答が山彦のように耳に反響した。近くの駅に太郎の姿があった、どこか寂しさを感じる無表情だった、トラック助手募集が駅の掲示板に貼ってあった。真夏の炎天下での積み荷作業だ玉の汗が流れ落ちる筋肉労働だ。しかしその雰囲気は不協和音のようなジャズめいた一心不乱の境地に共鳴していった。仕事後の爽快さは太郎の好みにマッチした。明日は成人式だ、大型免許も取得したし、一応 納得のいく人生行路、「そうだ あの時のあの仕事士の上書きを我が身に複写しよう」、「我が肉体への筋肉を通じて語りかけながら明日を追いかけてみよう。

あの時の赤い褌の沖仲士だ。この仕事は船舶を管理する組合から停泊場所を受け取るので日雇いだ。積み荷は石炭、米俵、セメント袋等重量物だ、汗と筋肉の軋みと巧みなリズムだ。太郎の体は見事なまでに筋肉の鎧となっていった。相変わらず一人暮らしだ、家事も細目にこなし不自由はなかった。食事も菜食中心で外食もほぼしない、(あのゴリラはマッチョだが菜食だ)、独り言。確かに本をよく読んだ、漢字も時々は誤判断するがそれなりに乱読するうちに文章の繋がりから解読できていった。太郎は油の乗り切った40歳になっていた。

何時ものように足場の渡し板をリズムよく渡っていると、土手の上で見つめる目線を感じた、犬を連れ日傘をさした女子のようであった。昼食となり土手に上がりこれも何時ものように玄米弁当の蓋を開けると、何時ものように梅干しと葉物の漬物と干し魚、そして緑茶ではなくコーヒーと言う不協和音だった。すると何処かで太郎と呼ぶ声がした、それも太い声ではなく綺麗なソプラノだ。ふと横を見ると5メートルほど先で女子が犬を呼んでいるのだった。太郎は吹き出してしまった、するとそのお嬢さんが「御免なさい、太郎がそちらへ行こうとしたもので呼んだのです」、「いや別に問題ありませんよ」太郎は笑い返してこう言った「ボクも太郎なんです」。そして暫く笑い声が止まらなかった。時々その土手に姿を見せるようになった、彼女は看護師として勉強中であったのだ。特に人の筋肉についても勉強中だとも話してくれた。「私 18歳です」、「そう見えますよ」太郎は笑みを浮かべて言った。

あれから10年経っていた。泳ぎ返してくる太郎に向かって「今日は何を作ったくれるのー」、嬉しそうな声が太郎の耳に入った、「何でも言ってー」太郎もそう言われるのが好きだった。

              多大 和彦 トーマス