潮の香りが校舎の廊下迄入り込んでくる、春の昼下がり。
上総湊市、上総湊の海に近いこの擁護学園の時間は、外の世界より少しだけゆっくり流れている気がいます。
小学五年生の「僕」にとって、放課後のバスを待つ時間は、一日の中で一番緊張する時間でした。席に座っているのは、同じクラスの遠藤和子さん。
彼女はいつも、潮干狩りのバケツみたいな真っ赤なリュックを背負って、膝の上で指をさわしなく動かしています。「ねえ、今日の給食のゼリー、おいしかったね」
和子さんが、不意に僕の顔を覗き込みました。彼女の瞳は、キラキラ光る上総湊の海をそのまま閉じ込めたみたいに澄んでいます。「うん。オレンジのやつ。僕、和子さんにあげればよかった」照れくさくて、僕はわざと校庭の端っこに咲いている菜の花を見つめました。和子さんは「あはは、いいよ。自分の分。ちゃんと食べたもん」と笑います。その声が、春の風に乗って僕の耳をくすぐりました。
僕たちの通う学校では、言葉をうまく言えなかったり、計算が苦手だったりする友達がたくさんいます。僕も、自分の気持ちを言葉にするのが少しだけ苦手です。
でも、 和子さんといる時だけは、胸の奥がギューっとして、熱いココアを飲んだ時みたいに体がポカポカするのでした。
「あのね、和子ちゃん」「なあに?」「明日も、晴れると良いな」
本当は「和子ちゃんの髪、お日様の匂いがするね」とか「ずっと一緒にいたいな」と言いたかったけれど、僕の口から出たのは。ありふれた天気の予報でした。
遠くから、僕たちを迎えにくるスクールバスのエンジン音が聞こえた来ました。バスの窓が夕陽を反射して、オレンジ色に輝いています。和子ちゃんは立ち上がり、僕の袖をチョンと引っ張りました。「明日も、明後日も、ずっと晴れるよ。だって、春だもん」彼女が僕の手を一瞬だけ、ぎゅっと握てくれました。柔らかくて、少しだけ汗ばんだ、温かい手。
上総湊の波音に消されたしまうような、小さな小さな初恋。バスに乗り込む遠藤和子ちゃんの背中を見送りながら、僕は明日が来るのが待ち遠しくて、何度も心の中で彼女の名前を繰り返しました。