暗夜行路

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暗夜行路

ビルに埋もれてしまったような気分だ。探したいとの気持ちは募のだが、ビルの狭間は無情にもそっぽを向いてしまったようだ。健司から去って行ったのは春先の風がピンク色に吹く日だった、運命の悪戯と流せばいい、起こることに足を止めていたら明日はこない。浮気、浮ついた心と解けばいい俺は我慢強いから過ぎた過去と取る。何回となく告げたのだ。が、俺が帰ってみる京子の姿はすでになかった。俺はこんなにも君を愛しているのに、健司の端正な顔立ち鼻筋が通り深く掘られた眼孔から一筋の涙が流れた。

寂しさを背に受け二人で歩いた町、港の防波堤ではしゃいだあの日、海岸の砂浜で沈む夕日を見た場所、只々捜し歩いた、虚しさが吹き込んでくる心を抑え切れずにいた。娘が家で明るく振る舞ってくれるのが唯一の慰めだ、キッチンに立つ姿は京子そのものだ二人は女らしさを浮き彫りにする可憐な美しさだった。娘の作ってくれる料理も親子だ似ている肌理の細かい味は俺を楽しませてくれた。

娘は言った「何故走ったの」と、健司は「お母さんは真田広之が好きだったんだ、勿論俺のことも大好きだった」、娘は続ける「私も見た配達に来た時に、母に聞いた素敵な人ね、幾つと聞くと8歳下よ、何故知っているのと聞いたの」ここまで話し合うと二人は口を閉ざした。

夏も終わりに近づいた日曜の昼下がりだった、電話のベルが何故か強く感じた。出ると電話の向こう側から年配の女性の声だ「何時か来られたお二人の宿帳を見ました。その旅館の女将です」と言った。健司の顔から血が引くの分かるほど小刻みに震えていた「どうしました」健司は振り絞って聞いた、「貴方の奥さんですね、今朝、海岸に打ち上げられました」受話器から何度となく聞く声があった。健司は受話器を投げ出し床にし座間づき涙が止めどなく涙が溢れた。傍のインターネットからキム・ヨンジャの歌う暗夜行路が一層哀しさを増していった。