老人と少女 (ショートショート小説)続編二弾

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川元源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎がロスの空港に降り立ったのは早や数十年前になる。日本で過ごしたことを数え入れると長い年月が流れたものだと、溜息交じりにつぶやいた。繁々と自分の顔を眺めると年月の割には皺の少ない彫の深い顔だ。決して嫌いではないが子供の頃はそれでよく虐めの対象となった。母は紛れもない日本人だ。が、父は米系のようだ。俺が物心がついた時には既に父はいなかった。別にそれが自分に取って問題はないから母に聞く事もなかった。母は源司郎を慈しみ可愛がった。母は商売が好きで自分で食品を扱う店を持ち、当時は未だコンビニがなくその周辺は中小企業が多くその作業員んが良く利用し繁盛した。元来、母の性格は丼計算だ、が、商売好きだったようでその事が私たちの生活を平穏に維持してくれた。中学校に入学する頃には源司郎の体も大きくなり、それが虐めから解放されたのであろう。源司郎は良くこう思ったその当時が第一の人生に於ける分岐点だった。彼の性格は勉強には不向きなようだ。しかし、こうも考えた学校時代の勉強は将来どのような効果をもたらすのだ、思案しているところへ一羽のカラスが舞い降りてきた、そしてカラスは言った「君、それは野暮な思考だよ、俺がこう飛べるのも教えの賜物だ。しかしな教えられる事は基本だけなんだ、それをどう展開していくかは君の裁量知能なんだがな」と話して再び飛び立っていった。源司郎は薄々と心に浮かびあがるものを感じ取っていた「母の愛も教えだな、生きていくには脳を育成させることが必須、それが勉強だな」。只、源司郎には生まれながらに持つ才能があった。小学生低学年の頃、友達と銭湯に行きはぐれたその時、動顛(どうてん)したのか帰れなくなってしまったのだ「何てことだ、この様な非現実的な事が起こることない大きな興味を持ったぞ」と心の中で叫んだ。日常起こり得る事。その向こうには真実が幻相し交錯しているんだと、幼心に芽生えた。それが源司郎の哲学的才能だったようだ。

源司郎は中学の高学年なるとヤンチャな世界へとはまって入った、何にもかも何故か空しかった喧嘩もよくした。しかし、悪になり切ることは出来なかった、それは同じ教室の後ろに座る女子生徒に心が惹かれるからか、彼女の名は多田文子、勉強の良くできた可憐で可愛い子だった、目が合うと何も言えなかった、初恋だったのであろう。今思っても熱い血潮が騒ぐ。勿論出来ないが今でも会いたい気持ちは変わらない。

高校時代は実に辟易した。源司郎とは掛け離れた工業高校だ、一つの事を限られた場所で一心不乱に同じ事の継続は無理だった。大きな欠点でもあるが長所とも言えなくもない、それは心は自由に舞えるからだ。其の頃は同年代の女子には大変良くモテた、子供の頃は顔の事で虐められたのが嘘のようだった、常に誰かが傍に居た。多くの変遷を経た今、心の中を流れ行く強く快い思い出だ。その頃より母にいずれは米国に帰ると伝えた、母は何も言わずに強く抱きしめてくれた。よく母の恩んは海より深いと言う、確かに海とは母と書くなと何となく感じた、源司郎の生涯はそれなくして考えられない、かった。定職が定まる事なく20代を疾走した、一段と精悍さが増した顔つきは彫の深さと相重なって神秘性を帯びた、ヘイズカラー(霞かかったブルー)の目の色はセクシーでもあった。ある時、有楽町を歩いていたら、映画評論家の多感な小森和子氏が源司郎の顔を見て振り向いた、源司郎の顔には口髭があったので彼女の好きなオマル・シャリーフを彷彿したのであろうか。20代の感性は最も大きく影を引く分岐点だ。その後の人生は其の延長線上でしかない、いやなかった。25歳の時。祖国の忠誠心だったかベトナム戦争に参戦した。誰も米国人と接してきた。戦場は恐怖と貧富な市民の怒号で渦巻いているだけだ。幼児が裸で泣きながら歩いているのを見た時、何も出来ない自分に嗚咽した。通称ベトコンと言う北ベトナム兵士だが、米兵と異なり筋金入りの命知らずだ。米兵には多くの戦死者が出た、ジャングルを行軍中、一米兵が路上の空缶を蹴った瞬間、凄まじい爆音と共にその兵士の片足が宙に舞った。源司郎もある時の移動行軍中に頭上の木が少しだけ騒いだ、ふと目を頭上の木にやると今にもライフル銃の引き金を引かんとするばかりの北ベトナム兵が潜んでいた。間一髪、源司郎は気が狂ったように木を目掛けて撃ちまくった銃弾を全て使い切った直後、激しい音を立てながら頭上の木から落ちて来た。煩雑な精神状態もないし何故か哀しみ同情感も皆無だった。「これが戦争か」と吐き捨てた、その時悲しそうな母の顔が瞼に浮かんできた、微笑を絶やさなかった母なのに源司郎は目は潤んでいた。生き延びた源四郎には鎮魂と言うくさびが心に打ち込まれた。

休暇で日本に立ち寄ると実に平和だった、すれ違う日本人の顔は何故か無表情に見えたが心に安ど感が流れた。只漠然と銀座を歩いた、日焼けした精悍さを増した顔、究極の修羅場にいる自分、何か大きな変化を自分に感じざるを得なかった。源司郎はこう思った、これが人間としての戦う哲学だ無事に除隊できたとしてもこの哲学が生涯への正道だと心に刻むのだった。耐え難い事態に遭遇する事はあるだろうが避ける事はしない「捌く」目を逸らす事もない。当時こう言う話も耳に入った、同じ日本からの参戦兵士が休暇で日本に立ち寄り、その平穏な様子を感じ脱走したのだ。「俺の人生にはあり得ないことだ」とだけ呟いた。休暇中、甘酸っぱい思い出もあった軍服が良く似合った、女子高生や女性がよく一緒に写真を撮らせて下さいと言われた。

原隊に戻り激しい戦いは続いた米軍は苦戦を強いられた。北ベトナム兵士は精神の戦いなのでゲリラ戦を含みありとあらゆる戦いで挑んできた。最前線ケサンの戦いは凄惨そのものだった。夜間になると最前線向こうに浮蚊の様に途轍もない数の北ベトナム兵士が一キロ眼前に浮き出る、援軍の空爆がそれを目掛けて始まる、空爆が終わると惨状は繰り返す、米兵はそのストレスに耐えられず麻薬浸りになったり狂ったように撃ちまくる。戦いとはこれほど無意味なものか戦場ではそれを補うものは何もなかった、生きるか死かだけだ。米軍に多くの戦死者が出、敗戦へと引きずっていった。戦場での戦闘期間八か月が終わり原隊へと戻った。其の後ニ年満期除隊となる、其の時、指の一本が第一関節から消えていた、名誉の負傷かと笑った。(現在になって感じる事はキーボード社会に於いては不自由はある、まして作家にしてはだ)。

東京に戻った源司郎は容姿も一変した。長髪細身筋肉質の体にジーンズカジュアルの容姿が短身に拘わらず良く似合った。元来、自惚れするとこがあり、遅い春を楽しんでいた。女性は次から次へと浸りながら変えていった。静寂に過ぎ去る日々が戦場とは比較にならないほど心を酔わせたのだ。あるきっかけでイラストレーターの道へと進むことにした。絵を描くことが好きな事なので、ましてファション画である。デザイナーの道を決意するのには時間が掛からなかった。それは二十代後半の時だった、好きなアメリカに戻り思う存分その夢を追う事にしたのである。

ロスの町並みは想像したものであった。気候も抜群だ、人間気質も米兵から感じたままだったしネガティブを見出す事は何もなかった。しかし、底辺をさ迷う人間にとっての生活は半端ではなかった。最低限は寝る場所と車、そして仕事だ。当初の夢は生活の多少の安定後と、今出来る仕事を就活した。老人ホームの看護人の仕事を探し当てた。この仕事が以後の人生に大きく使命感として残った。終焉の扉を開けたのだ。そこへ入所する人たちは最後のステージなのだ、それを知ってか知らないかは当人に取っては意に介してはいないだろう。トランク一つで渡米して来て、そのトランク一つで入所してくる、その光景は限りなく寂しく感じた。身寄りがなく体を壊して結婚も出来なかったのか五十代の男性、まだ社会で働けるのだ。自慰の姿を見た時深い虚しさを感じた。勿論、中には栄華を極めた人もいた。一応に言えることは老人になると認知機能が低下している、これはせめてもの人間としての最後の慰めの様に感じた、この場所は鮮烈なイメージは必要ない場所だ。生きると言う事は壮絶な闘なのだ、そうでなくてはいけない。戦う事を止めた時に流れに沿って下流に下るだけだ。歩くことを止めた時、歩けなくなった時、そして生か死かの選択となり、全ての人が生老病死で終わる。

源司郎はがむしゃらに働き続きた、その時代が味方し、動労組合の力が強く米国人はそれに守られてた、一般仕事でも高給が取れた、同時に二つの仕事を持った事もある。いつの間にか六十の歳の坂を越えていた。ファションの夢の欠片は遥か向こうへ飛んでしまっていた。だがそれとなく不自由を感じることない今を過去と比べて思う幸せは小さいものではなかった。渡米当時の仲間は見る影はなかった。国を捨て根ずく難しを物語っているようだった。搾りかすの様になって母国へ帰って行く姿は老人ホームで働いた時が彷彿されて仕方がなかった。

ある日、バス停のベンチの前を歩いていると一人の少女がベンチに座っていた。目が合うと少女は笑顔を向けた。その笑顔は正しく美しい瓜実顔のブルーアイズだ、見慣れた白人の顔だがこの時は一段と心に映えた、心の純粋な半鐘が鳴り続けた。ファンタステックこれは現実か、源司郎は尋ねた「何してるの」、少女は「散歩中疲れたので休んでいるの」、源司郎は続けた「何時も散歩するの」、少女は「体が弱いので途中ここで何時も休むの」、「好きな事は何」、「花を見たりお星さまを見たりすることね」、この様な情景会話が源司郎が何時も散歩する時にはあった。

源司郎の日常はB型なので趣向も気分屋だった、その中で物を書くと言う事は好きだった。文体での表現は亡き妻がよく褒めてくれた、妻は乗せて引き出す事には良くハマった。集大成の塊は作家であろうと思った事は確かだった。

何時もの様に散歩して何時ものベンチに来ると少女はいない、唖然としてベンチを見つめ直すとそこには一輪の白いバラが置いてあった。そのバラを手に立ち尽くしてしまった。ほんの少しの間だが長い時間んが過ぎたような気がした。ふと後方から女性の声がした、振り返ると美しい女性が立っていた、「私は少女の母です、散歩中は何時も後方から見守っていました」、「娘からは大好きなハンサムなおじさんが話し掛けてくれるの、と、聞いて言いました、私もそれを見て知っていました」、話は続く「娘は昨日心不全で亡くなりました」、聞くや否や源司郎の目から涙が止めどとなく溢れてきた、泪を拭く事もなく女性をハグして源四郎は言った「僕のせいです」意味不明だが呟いた。

耐えられない寂しさはあるもんだ。夜空を見上げると珍しく流れ星が出た。こんな美しい夜空は見たことがない、家のメールボックス見ると一通の手紙が入っていた、「母が心不全で昨日亡くなりました」、源四郎は「ああ、」嗚咽、嗚咽だった。少女と母が重なり合って「少女と母は同じ人だったのだ」と言い、源司郎の涙は止めどもなかった。

 

 

 

恋仕掛け

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少し間がありました。カリフォルニアにて明るい太陽の日を浴び創作活動に勤しんでいます。長く遠い道を歩いて来ました、船底に吸い付くツボ貝のように体に経験と言う貝が住み着きました。いつの日か銀座の文士が屯するクラブにひっそりと佇む姿を浮かべていますSometime!ヘミングウェイのような小説家が主旨んです。執筆の持ち味は揺れる感情がテーマです。はてなブログさん、書いて欲しい題名をください。

[恋仕掛け」

ある日の午後だった数枚の便箋が郵便受けに入っていた。開くとたどたどしい英文で書かれてあった、年男を掠めたのは数か月前に載せたペンパル欄である、空間を錯綜するケーブル網の中の一つの顔か。明確な挨拶のない英語を習いたいとの文面がそのものであった。時間との設定で易しくはないと伝え、貴方が日本語か英語を選び手紙かメールのどちらかをと書き添えました。高校生の少女と中年の女性からの返信がありました。少女は英語で書いてよこし完璧に近い英語でした。米人でも完璧に書く人は多くは無いのです、語彙を把握し適所に充てると言う事は言う迄もないのです。彼女のメールは新鮮ものでした、平井大君が好きで耳からイヤホンを離さないと言っていました。こう言う事は現代の若者の一般的な兆候と言っても差し支えない程根付いています。家族の写真も見せてもらい、一般的な幸福で平凡な感じはとても心が和みました。彼女自身の写真も現代風にモッタもので可愛かったですね。しかし暫くすると内容に自身以外の影が漂い見えてのです、消えるとか心理的に紛らわしいものとなって来ました。

もう一人は北国の御婦人でした。管理人をしているとの事でした、初めにくい感じがして気乗りはしなかったのですが、日を追うごとにざっくばらんとなり打ち解けたもとなって来ました。只不思議な事に双方の文章構成に共通性が見いだせなく、話が飛んでしまうのです。これは確実に影が見えました。双方を通して感じたことは人間の独自性が及ぼす影響はその人、本人の将来への価値感ですね。惑わす惑わされるこれは少なからず欠如を生むかもしてません将来に於いて。少ない時間でしたが私に取っては大いに有意義な体験でした。全く彼らに対しての心の留意はありません。むしろ楽しかったです。

 

荒馬と女

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荒馬と女

  手綱を力任せに引く、鼻息荒くようやく馬足を止めた。まるでムスタングだ、下馬するとグローブした手が痛かった。雌馬は手が掛かると吐き捨てるように言った。つかぬ間、馬が暴れ出した。慌てながら投げ縄を手に近づいた後ろ脚で立ち前脚をばたつかせた。焦りながらも慣れた手つきで縄輪をシュルシュルと回し馬の首に投げた縄は掠っただけで外れた。若い時は一発で決めたんだがな、少し足の踏み込みが遅れたようだ。危険を顧みず歩幅を狭めた、再びいきり立った前脚をバタつかせたこれは馬の牽制だ。少しあぶねえかなと心持少しビビった、二発目をシュルっと一回廻し投げた、ビシッと手応えを感じた、その縄を走り回りながら胴体に絡めていくのだ。自分でも何故か力以上のものを出しているようだ。汗と土埃で馬場は荒れた、ようやく観念したのか鼻息を鳴らし落ち着いてきた。男の疲れも激しかった、柵の上段に跨りそれを見ていた女がいた。男の息も荒い、肩で息をしながら満足気に女に近ずく、女が言った「ファンタステック」と呼びかけながら指で招いていた。女は金髪で透けるような白い肌だ。柵から飛び降り少し腰が揺れるモンローウオークしながら男と絡み深いキスをした。男の見せ場は闘牛士が動じず牛を捌く血を感じる場面であるようだ。男のロマンの影には美女との接点を仄めかすものが必要だ。男と女は肩を寄せ夜霧の中へ消えていった。それを追うように山並みが闇に沈んでいった。

暗夜行路

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暗夜行路

ビルに埋もれてしまったような気分だ。探したいとの気持ちは募のだが、ビルの狭間は無情にもそっぽを向いてしまったようだ。健司から去って行ったのは春先の風がピンク色に吹く日だった、運命の悪戯と流せばいい、起こることに足を止めていたら明日はこない。浮気、浮ついた心と解けばいい俺は我慢強いから過ぎた過去と取る。何回となく告げたのだ。が、俺が帰ってみる京子の姿はすでになかった。俺はこんなにも君を愛しているのに、健司の端正な顔立ち鼻筋が通り深く掘られた眼孔から一筋の涙が流れた。

寂しさを背に受け二人で歩いた町、港の防波堤ではしゃいだあの日、海岸の砂浜で沈む夕日を見た場所、只々捜し歩いた、虚しさが吹き込んでくる心を抑え切れずにいた。娘が家で明るく振る舞ってくれるのが唯一の慰めだ、キッチンに立つ姿は京子そのものだ二人は女らしさを浮き彫りにする可憐な美しさだった。娘の作ってくれる料理も親子だ似ている肌理の細かい味は俺を楽しませてくれた。

娘は言った「何故走ったの」と、健司は「お母さんは真田広之が好きだったんだ、勿論俺のことも大好きだった」、娘は続ける「私も見た配達に来た時に、母に聞いた素敵な人ね、幾つと聞くと8歳下よ、何故知っているのと聞いたの」ここまで話し合うと二人は口を閉ざした。

夏も終わりに近づいた日曜の昼下がりだった、電話のベルが何故か強く感じた。出ると電話の向こう側から年配の女性の声だ「何時か来られたお二人の宿帳を見ました。その旅館の女将です」と言った。健司の顔から血が引くの分かるほど小刻みに震えていた「どうしました」健司は振り絞って聞いた、「貴方の奥さんですね、今朝、海岸に打ち上げられました」受話器から何度となく聞く声があった。健司は受話器を投げ出し床にし座間づき涙が止めどなく涙が溢れた。傍のインターネットからキム・ヨンジャの歌う暗夜行路が一層哀しさを増していった。

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恋のプレリュード

女性諸氏、ジョニー・デップです。又、蹴られるでしょうが、B型男の憂鬱です。

  越えなけらばならない山がそこにあった、荒涼と広がる大地の上にだ。数時間前に起こった憂いることだった。初めて彼女に遇ったのもこの場所だドライブでその山を越えるつもりでいた、一台の車がそこに停車していたその側方を通り過ぎようとガスペタル踏み込んだその時、その車の前に一人の女性が現れたその時彼女のスカートがめくりあがった、以前小川ローザのCMにあった場面を彷彿させた。直ぐ路肩に止め駆け寄った、彼女が言った「突然エンジンが止まってしまったの」男はフードを開けた途端異常な熱気、身をかわし彼女に伝える「オバーヒートらしい」と口にする。

セルホーンでAAAメンバーカードから掛けトーイングカーを呼ぶ「後は心配なです」と言いウインシールドワイパーにメモを張り付けた。

さー、僕の車に乗って下さい。マジに彼女の顔を見ると絶世の美人だ。高鳴る胸に言い聞かせるようにハンドルを握る、小さな町に入るカフェに寄って行こうと問い掛ける。すんなりオーケーをだす、カフェは心を和ませ話の先を常に肯定感を待たせるようにするデート場所には格好だ。BGMロバートグラスバーのピアノ演奏が背後から扶助してくれる。一時の空気が花を見るように過ぎた、軽いプレーボーイとしては話の内容そんなものはあるわけがない。只々彼女の話に合図値をうち聞くだけで彼女を酔わせる。そして男の青い目で潤んで見つめればイケメンと思わせられるんだ。それで後のステージが変わる。

甘酢パイ吐息がベットから咽ぶベットが微かにきしむ、蜜日だ何も言うことはない、もしあれば空間の無重力とこの様な事だろう。情事が終わりけだるそうにベット横に’立つその姿、覚める感性が妖精を招くようだ、囀ったとは思えない美体である。

ドアの内側から手を振る、男はコンパーチブル・ムスタングのガスペダルをきつめに踏み込みタイヤをきしませるサウンドを挨拶代わりに残し去って行った。男は言った「束の間の恋は一度だけなんだ」と。

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口癖です。ジョニー・デップですが。モテコーデのB型の僕ですが、これを言うと必ず女性に嫌われます。大昔、宿でホストをしたことが少しは残っているのでしょう。ハッキリ言って大したお面ではないです、鼻が高く目が彫り込まれ目の色がヘイズアイだけです。只 ロマンスコーデが好きなだけです。僕はこの言葉をよく女性に以前は使います、じーと👀を見つめて「👀を見て、ほら君しか映ってないよ」真顔で、眼力。

 

  ダイエットこの現代の言葉は象徴的になってしまいました。それほど興味深々なワードですね、この言葉をどうとらえるかです。人生はいろいろ見方もおなじです、太く短くか細く長くか何方にしても生老病死は待逃れません。ですので自身の人生羅針盤の修正補填から入らないと、それに対してのインセンティブです。美食酒池肉林金をイメージするならダイエットは無意味に響きます。健康寿命を長く維持する事は大きな大きなインセンティブなのです。才人と凡人とでは歩測が異なります。しかしたとえ凡人であっても乗りを越えずに生きて行けば時間が解決します。おとぎ話ウサギと亀は満更ではないのです。さて他に勿論あります、容姿端麗と言う言葉は標準体重マイナスαがなければ成り立たないのです。しかしそれを得た時のインセンティブはコスメサージュリーより以上の効果です、目は大きくなり鼻はシャンプーになり顎が出来る。それを味わう事を連想して下さい。街を7号サイズで颯爽と歩くのです、風が髪を灌ぎ靡くこれはただ事ではない、でしょう。

本題 関しては巷の洪水のように溢れて本が出ています、食べて痩せる、砂糖は太らない、高蛋白ダイエー(これで前クリントン大統領は心疾患なり手術)、面白いのは食事模様を記帳するダイエット(笑い)、炭水化物に特化した内容(その張本人がご飯を食べている)、雑多もろもろだ。

もし君が信じるなら、自己の羅針盤想定から入るべきだ。無意味なダイエットだったら意味が無いし続くものではない。大筋から入ろう、消費カロリーと摂取カロリーの差値だけなのだ。先ず始めるには食事と運動を両立させない事、意味は運動をすれば腹が減るだから食べる量も多くなる、さっき話したカロリーバランスだ。食事量を暫時減らしていく九分、八分、七分と胃袋の内面壁を小さくしたいく。それとファイバー粉末ジュースを8オンスの水に溶いて食前に飲用するここは大事。穏やかに体重が落ちていく、はずだ。3キロから5キロ痩せたら運動併用を開始する。ほぼ胃袋は7分に近づいたであるね。食事は万遍無く、勿論米飯も、ここでのポイントは腹七分に食べる、例ラーメンだったら半分は残す。昔の粗食時代より現代の方が極めて長寿だ。であるから食事に拘らない。もし出来たらの話しで週に一度はファーステングをして消化器のクリーンアップをする。運動は軽い筋トレと縄跳びこれは女性の方は骨密度を著しく改善増量する事間違いありません。

聞いてください、要するに生活習慣の再構築です。リバウンドしようがないでしょう。一石二鳥です。質問があれば答えます、僕のようにベジタリアンに拘ることはありません。

僕を見てイケメン細身筋肉着痩せだからモテコーデで~す。こう付け足すから嫌われていますトムちゃんで~す。

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今回は侍の心と言う題で過ごした日本を書いてみたい。

俺は日本を愛した。そう東京の下町で過ごし多くの事を受けた、当時のこの場所は確かに飢えていた、駐留米兵の投げてくれるチョコレートの味には驚嘆した、私が愛した母が作ってくれる飴は酢と砂糖を混ぜ合わせ熱したものだ。当然比べられるものではない。それでも母と二人で舐める時は何時も幸せな気持ちに浸ったもんだ、全てが欠乏した時代でもそうであった。ママズボーイだったので遂でてしまう、よくこう言われた「母の腰巾着だ」と冷やかされた。

ドンボスコ幼稚園、そこはクリスチャン系の園で米牧師が園長をしていた。母に連れられて来たのは小学校へ上がる前の一年、最初の頃は母と一緒に来たいとお願いした。が、帰って行くと必ず泣いた、少しずつは慣れてきたのだがB型の俺は子供らしからず一人遊びが多かった。隣に住む同年の森田真理子ちゃん、偶然同園だったことを知る俺は早熟であったのであろう彼女がよくかっちゃん(俺の愛称)可愛いね、と言われると照れ臭かった、彼女が引っ越す前までは一緒に通園した。彼女が手をつないでくるので嬉しかった、あれは紛れもない初恋であったと言う思いは淡いものだが足跡として刻まれた事は決して小さいものではない。ある曇りの日に母が園長先生が「雲に露」と挨拶で言ったと言うのだ。母は感心して天気模様を日本語で話したと言う。俺は不思議がって考えた、毎朝先生はグッドモーニングと英語で挨拶をする、そこでひらめいた、あっそうか、グッドモーニングが母の初めての耳には雲と露と聞こえるのだ、一人で大笑いした。無論そのことは母には話さなかった。俺が英語を耳にしたのは其の頃だったな。まさか後年になって米国住もうとは当時想像もつかないことだった。東京の空は果てしなく澄んでいた星も降るように咲いていた。

小学低学年の時にハリウッド映画が到来しアメリカの優位性を否が応でも感じ取った。ゲイリークーパー、ジョンウエーン、タイロンパワー、エロールフリン、ロバートミチャム、画面もイーストマンカラーと言う総天然色だ。正しく別世界。母に聞いたことがある「大きくなったら住める、あの飛行機に乗って」母は言った「住めるよお前は権利を持っているからね」少し困惑したことを昨日のように覚えている。そう言えば父のことは何も言わなかった、不自然さは目の色と顔だけで別に父のことは俺も聞かなかった。朝鮮戦争が始まったのも其の頃であった。日本は輸送基地となり軍需景気を伴い現在への礎となったのだ。ではあるが米国は最初の敗戦と言う考えられない事が起こったのだ、多くの青年兵士が戦没していった。マッカーサー元帥、大二次大戦の英雄だ、彼が指揮を降格になた戦上の問題(これが言うべきではないであろう)でだ。元帥はこう言って帰国していった「老兵は死なず、只去るのみ」。其の後ベトナム戦争にも勝てなかった。何故超大国が、されはあまり難しくない。この逸話を紹介しよう、ベトコン(北ベトナム兵士の俗称)の一兵士が捉えられてヘリで空中に持っていかれ米兵からこう言われた「お前が白状しないとここから突き落とす」べトコンはこう返した「俺がもう一度生き返ったらお前らを八つ裂きにしてやる」と言って唾をかけた。彼の命の華は空中に舞って行った。そう言う魂機根があればこそだ。彼らは侍だ、以外の何者でもない。 常に私は哲学、瞑想、空手からこの心を伝承していく、俺はもしかしたらヒーローかも。